渦の底で天丼を食う

市役所の待合室から天丼屋へ。都市と身体の境界が湿気に溶ける随筆。

市役所の待合室には、渦がある。

番号札を握って座っている。エアコンは効いているはずなのに、身体の芯に熱がこもって抜けない。書類を出す。説明する。別の窓口へ回される。また座る。その反復のどこかで、脳の奥がじわりと鈍くなる。思考の解像度が落ちるのが自分でわかる。声が遠退く。蛍光灯の唸りだけが近くにある。身体が、この場所のリズムから静かに脱落していく。

——これを疲労と呼べばそれで済むのだが、もう少しだけ考えてみたい。

都市は情動の渦巻きだ、と言った地理学者がいた。怒り、歓び、退屈、恐れ——それらがつねに煮えたぎり、上昇し、やがて平常に戻る。劇的な事件だけの話ではない。窓口で書類を突き返されたときの微かな屈辱。隣の老人の咳。待機番号が一つ進んだときの、報われたとも言い切れない安堵。些末な刺激が何層にも堆積して、それが渦になる。渦は目に見えない。ただ身体のほうが先に気づく。

外に出ると七月の湿気が肌を包んだ。体感三十三度。空気に厚みがある。歩いているというより、泳いでいる。大通りを渡って、チェーンの天丼屋に入った。天丼を頼んだ。揚げたてのかき揚げの油が舌の上で弾けた瞬間、さっきまで薄れかけていた意識の輪郭が急に戻った。熱と塩と脂。身体は案外、単純な入力で再起動する。

都市に百パーセントで対峙すると壊れる——いや、壊れるのは都市ではない。こちらの身体だ。ある格闘家が後輩に「常に四割でやれ」と言ったらしい。百か零か、全力か完全休止か。その振幅で生きていると保たない。四割の出力を持続すること。それは怠惰ではなく、生存の技術だ。

格闘技には距離の哲学がある。遠間では蹴りで相手を突き放し、近間では首を掴んで肘を落とす。もっとも危ういのは中距離だ。どちらの武器も半端にしか届かない。都市でも同じことが起きている。完全に引きこもるか、完全に飛び込むか。どちらかに振り切れれば楽だが、大抵のひとは——俺も含めて——中距離に立ったまま、渦に巻かれている。

帰りの電車で窓に映った自分の顔がぼんやりしていた。忘れたはずの疲労が、時間差で浮かび上がってくることがある。消えたと思ったイメージが底に沈殿して、不意に再浮上する。残像、と呼べばいいのか。市役所の蛍光灯の下で遠のいたあの意識は、疲労だったのか、それとも身体の底に沈んでいた何かが行政手続きという圧力で押し出されたのか。

わからない。わからないまま、四割の出力で揺られている。天丼の余韻だけが胃の底にあたたかい。