こぶしの亡霊

日本語ラップのフロウの底に、歌謡曲の幽霊が棲みついている。

ある夜、プレイリストを流していたら、ラッパーのフロウの中に演歌のこぶしが聴こえた。

空耳だと思って巻き戻した。もう一度聴いた。いる。確かにいる。母音の末端が微かに揺れて、喉の奥で転がるあの感触——歌謡曲がずっと大事にしてきた声の技法が、トラップのハイハットの隙間に棲みついている。

最近、こういう瞬間がやけに多い。レゲエ由来の歌唱法がいつの間にか泣きの歌謡に変貌していたり、MVの所作に見得のような決めが入っていたり、巻き舌のアタックの直後に情緒的なビブラートが余韻として残っていたり。USのカルチャーを骨格ごと移植しようとしてきた世代が、キャリアの中盤で、自分の声の地下から何かが湧いてくるのに気づいている——ように、少なくとも俺の耳にはそう聴こえる。

仮に「内なるJ」と呼んでみる。日本の大衆音楽の底を流れる、歌謡曲の地下水脈。誰も意図して掘り当てたわけではない。ただ、声を深く使おうとすればするほど、喉が勝手にそこへ手を伸ばす。

退行か。堕落か。——そんなわけないだろう。

声帯には土地の湿度が刻まれている。子供の頃にテレビから流れてきた旋律、母語の母音が口蓋に当たる角度、祭りの夜に遠くから聴こえた拡声器越しの歌。そういうものが層になって、発声の癖として沈殿している。外国語のフロウをいくら写経しても——写経という行為にはいささか馴染みがある——筋肉は覚えている。忘れたふりをしていただけだ。

最近聴いた曲で、三人のラッパーがまったく異なるスタイルでひとつのビートを切り分けていた。そのうちの一人——高い声をウィスパーのように畳みかけるタイプの——が、ヴァースの終盤で「感謝をしてるよ命とHIPHOPに」と吐いた瞬間、こぶしとは違うのに、こぶしと同じものが通過した。祈り、としか呼べない何か。声が制御を手放して、本人も知らない場所に着地する、あの一瞬。

面白いのは——そしてこれはずっと考えていることだが——完璧に制御された声よりも、制御の綻びから漏れ出す声のほうが胸に来る、ということだ。オートチューンで均された音程より、生の喉がわずかに揺れる瞬間。技術を積み上げた果てに、技術では説明のつかない何かが顔を出す。こぶしの亡霊は、たぶんそういう綻びの中にいる。形式ではなく、祈りの位相に。

逃げられるのか、という問いが一瞬よぎった。よぎったけれど、今夜はその問いを追いかけない。イヤホンを耳に突っ込んで、次にあの亡霊がどのビートの上に現れるか、ただ待っている。待つのは得意だ。