社会は円の時間で動いている。
年度、四半期、月次、週次。カレンダーの上を一周すれば、また同じ場所に戻ってくる。桜が咲き、梅雨が来て、花火が上がり、雪が降る。この円環のリズムに乗ることが「計画を立てる」ということの実質だろう。来月の自分が今月の延長線上にいると信じてはじめて、予定というものが成り立つ。年間スケジュール、五カ年計画、キャリアパス——すべて、時間が円を描くという前提の上に建っている。
だが——波の時間というものがある。
上がったり下がったりする。規則性があるようで、ない。今日の凪が明日も続く保証はどこにもなく、眠って目を覚ましたとき、波がどの高さにいるかは寝る前の自分には予測できない。円の時間が「繰り返し」を約束するのに対して、波の時間が約束するのは「揺れ」だけだ。
この二つの時間は、噛み合わせが悪い。
円のなかに波を押し込めようとすると、波は歪む。波に円を課そうとすると、円が割れる。どちらが正しいとか間違っているとかいう話ではない。ただ、社会の制度設計——労働時間、締切、ライフプラン——が円の時間を基盤にしていることは事実であって、波のなかを生きる者はそのズレを日常的に引き受けることになる。動けるうちに動かなければという焦燥が、動けるときの全力投球を強い、その全力がまた次の波を深くする。日々の生活が日雇いのようになる。今日の自分に全賭けするしかないから。
ここで、身体の話をしたい。
精神が沈んでいるとき、身体だけが動いてくれることがある。逆に、身体が疲弊しきっているとき、精神のほうが遠くまで歩いていこうとすることもある。両者は完全には同期していない。そしてその「ズレ」こそが、ときに救いになる。メンタルが底にいるとき、棚をひとつ片付けること、コンビニまで歩くこと——身体的な小さい行為が、波の位相をわずかに変える。身体には身体の、言語化できない意志のようなものがある。野矢茂樹は、過去の非言語的な体験が自分に与える影響を「触発」と呼んだ(1)。因果ではなく触発——原因として特定できないが、確かに作用している何か。筋肉が覚えている水の抵抗、足裏に残っている地面の硬さ、そういう身体の記憶もまた触発の源泉であって、精神の波がどこにあろうと、前に一歩出る力を供給してくれる。
書くこともまた、波のなかでの航法だ。
理解されるためではなく理解するために書く、と述べたエッセイストがいた。書くことが波の現在地を確認する行為だとすれば、この言葉は腑に落ちる。言葉は飛躍する。無秩序に並べてさえ、それらは勝手に連絡を見つけ出す。円の時間において「予定を立てる」ことが自己を未来につなぎとめるのだとすれば、波の時間において「書く」ことは自己を現在につなぎとめる。いま波のどのあたりにいるのか。上がりかけているのか、下がり始めているのか。書いてみないと、それがわからない。
最近、東南アジアのダブ・ミュージックを掘っている。その土地の民俗音楽とルーツ・レゲエが交差し、エコーとディレイが時間を引き伸ばす。ダブという音楽はそもそも時間の構造を解体する音楽だ。元の楽曲からパーツを抜き出し、空間のなかに再配置し、反響によって現在と過去を重ね合わせる。円の時間でも波の時間でもない——残響の時間、遅延の時間。一音が鳴った瞬間にそれはエコーとなって何度も反復され、しかし反復のたびに少しずつ変質していく。これは、記憶に近い。
三木清は「幸福とは表現的なものである」と言った。幸福は押し込めておくと不幸になる。波の中にいてもなお、何かを書き、何かを聴き、身体を動かすこと——表現することそのものが幸福の形式なのだとすれば、波の位置がどこであっても、表現は可能だということになる。位置は変わらないかもしれない。しかし、波の中にいる自分がここにいるという事実が、少なくとも記録される。
円の時間に乗れない日があっても、波は続いている。波が続いているということは、まだ海のなかにいるということだ。
注
(1) 野矢茂樹『語りえぬものを語る』講談社、二〇一一年七月。