二つの時計
カレンダーというのは、よく考えると暴力的な装置だ。
一月から十二月まで。月曜から日曜まで。同じ周期が、同じ速度で、誰にとっても等しく回っている——という前提のうえに、社会のほとんどすべてが設計されている。締切、勤務時間、学期、年度。円を描くように巡る時間のなかに、あらゆる予定が配置される。この円環的な時間を「普通」と呼ぶ合意があり、それに乗れることが「社会的に機能している」ということになる。
ところが、僕の内側で動いている時計は円を描かない。波だ。上がって、下がって、また上がる。周期は一定ではない。振幅も予測できない。昨日の調子から明日の調子を推定する——という、あまりにも基本的な演繹が、高い確率で外れる。
円の時間を生きている人に「来月の予定を立ててください」と言われる。それは合理的な要求だ。でも波の時間を生きている人間にとっては、来月の自分がどの位相にいるのかがわからない。波の頂上にいるかもしれないし、底にいるかもしれない。あるいは——これがいちばん厄介なのだが——頂上にいると思い込んでいて、実はもう下降が始まっているかもしれない。
日雇いの生
この波のなかで暮らしていると、日々の生活が構造的に日雇い労働に似てくる。
明日の自分が動けるかどうかわからない以上、今日動けるなら今日のうちにやるしかない。「今週中に終わらせればいい」という計画が成立しないから、常に「今日中に」が発動する。結果、動ける日に全力を注ぎ込み、翌日に回復が追いつかない。動けなくなる。動けない自分に苛立つ。苛立ちが回復を遅らせる。悪循環の教科書みたいな展開が、繰り返される。
この問題を意志の力で解決しようとする段階はとっくに過ぎた。意志は波に対して無力だ。波に対抗できるのは仕組みだけで、仕組みをつくるにはまず「波のなかにいる」という事実を認めなければならない。認めたうえで、波の物理法則に従った生き方を設計する。
身体の意志
最近気づいたことがある。身体にも意志がある。
精神が沈んでいる日でも、身体が「動ける」と言っている日がある。逆に、精神は元気なのに身体が重い日もある。この二つは連動しているようで、完全には同期していない。別々の時計で動いている。
面白いのは、片方がもう片方を引っ張れるということだ。精神が落ちていても、身体の声を聴いて小さなタスクをひとつ片づけると——棚を整理するとか、近所を一周歩くとか——精神のほうも少しずつ浮上してくる。逆に、身体が疲れているときは、精神の元気を使って身体を休ませられる場所に連れていく。プール、銭湯、少し遠い公園。
これは精神論ではない。むしろ精神論の放棄だ。「気合いで乗り越える」のではなく、精神と身体を二つの独立したシステムとして扱い、調子のいいほうに主導権を渡す。制御ではなく委譲。支配ではなく傾聴。
身体が持っている、目には見えない——感じることすら難しい——意志のようなもの。それに敏感になること。これが、波の時間を生きるための、いまのところ最も実用的な方法論だと思っている。
バンコクからのダブ
話は飛ぶ。
タイのダブ/ルーツ・レゲエを聴いた。イサーン音楽——タイ東北部の民俗音楽——とレゲエのフュージョン。初めて再生ボタンを押した瞬間、椅子から立ち上がった。比喩ではなく、物理的に立ち上がった。
何が衝撃だったかというと、二つの音楽的時間が衝突しているのだ。レゲエの裏拍——あの粘っこい、重力に逆らうようなリズム——と、イサーン音楽のメロディラインが持つ独自の時間感覚。それが喧嘩せずに共存している。共存どころか、互いを増幅し合っている。
ジャマイカとイサーンは地理的には途方もなく離れている。でもリズムの構造には、どこかで通底するものがある。植民地経験の痕跡なのか、農耕文化が生む身体リズムの相同性なのか、あるいはもっと単純に、低音が内臓を揺らすという物理的快楽の普遍性なのか——わからない。わからないが、鳴っている。
円の時間にも波の時間にも回収されない、第三の時間。それは音楽のなかにある。少なくとも、あのダブのなかには確実にあった。
練習場の汗
ある格闘家の言葉を思い出す——練習で流さなかった汗は、リングで血となって流れる。
書斎で読まなかった資料は、論文で盲点となって現れる。泳がなかった一本は、タイムに出る。聴かなかった一曲は、感性の空白として残る。
これは脅しではない。因果の記述だ。入力がなければ出力はない。波の底にいる日は入力ができない。だから波の頂上にいる日に、できるだけ多くのものを浴びておく。読む、聴く、泳ぐ、書く。蓄えた入力が、底にいるときの自分を支える備蓄になる。
今日がどちらの日なのかは、身体に訊く。