消化について

言葉が消化されないとき、身体が壊れる。書くことは排出か、それとも消化か——「消化」という一つの比喩だけを、立ち止まって見つめ続けてみる。

胃が痛い夜がある。

原因は明白で、食べたものが消化されていない。けれどもう少し正確に言えば、食べたものが消化されていないのか、考えたことが消化されていないのか、その区別がつかない夜がある。身体はどうやら、言葉と食物をときどき取り違えるらしい。

精神分析にintrojection(取り込み)とincorporation(封入)の区別がある。取り込みとは、ある経験を自分のなかに溶け込ませることだ。食べ物を咀嚼し、分解し、血肉にすること。封入はその失敗で、経験がそれ自体として溶けないまま、異物として居座り続ける。飲み込んだのに消化されない。胃の中にあるのに胃のものではない。やがて鈍い痛みが始まる。

言葉にも同じことが起こる。誰かに話したかったのに飲み込んだ思考、声にすべきだった問い、書こうとして手が止まった一段落——それらは精神のなかで封入される。溶けない。分解されない。居座って、やがて身体のほうに信号が漏れ出す。脳が滞留した思考を未消化の食物と取り違えて、胃腸に「吐き出せ」と命令する——少なくとも、僕はそう疑っている。医学的根拠はない。ただ、タイミングが合いすぎる。言いたいことを言えなかった日の夜に限って、胃が痛む。

だから僕は書くことを排出行為として必要としている。知的な営為としてではなく、もっと即物的な必要として。指先から、滞留した言葉を身体の外に出す。出せば楽になる。これは比喩ではなく、実感だ。

ただし——ここで立ち止まる——排出と消化は同じではない。

吐き出しただけでは、消化したことにならない。ノートに書き散らした断片は、書いた瞬間の苦しさを確かに緩和する。けれどそれは嘔吐に近い。胃を空にしただけで、栄養が吸収されたわけではない。消化するには、吐き出したものをもう一度拾い上げ、読み返し、並べ替え、切り分け、繋ぎ直す——その二度目の工程が要る。書くことのうち、一度目は排出で、二度目が消化だ。

一文に全部を詰め込もうとする癖がある。接続助詞を重ねて、論理を一文の内部に畳み込んでしまう。あれは消化不良の症状なのだと、最近ようやく気づいた。次の一文が来るかわからない。だから今の一文に全部を入れる。明日が来るかわからないから今日を燃やし尽くす。話せるときに全部を話そうとする。——全部、同じ構造だ。次を信じられないから、今に過剰な負荷をかけて、結果的に次が来たときにはもう何も残っていない。

大丈夫。次の文は来る。

次の文は、自分が呼び寄せるものではなく、向こうから到来するものだ。この一文が一つのことだけを静かに持っていれば、次の一文はその隣にやってくる。論証はそうやって——一文ずつ、一呼吸ずつ——積み上がる。消化とは、つまり、次を信じることだ。

書けない夜がある。何も出てこない夜。一度だけ、書こうとして言葉が遮られたことがある。理由はわからない。ただ、その夜の胃の痛みだけを覚えている。

そういうときに聴く曲がある。紙とペンと音さえあればいい、と歌っているトラック。「何もないなら怒りもないはず/何もないなら俺はいないはず」——何もないことの中にすでに何かがある、という逆説。何もないなら、ここにいないはずだ。でもいる。ということは、何かがある。その何かを取り出す道具が、紙とペンだ。

聴き終えると、不思議と何かが湧いてくる。アイデアではない。アイデアの手前にある、小さな勇気だ。音楽は消化酵素に似ている。それ自体が栄養になるわけではないが、固まっていたものを分解して、吸収可能な形にしてくれる。滞留していた言葉が、旋律に触れた瞬間にほどけ始める。

ある批評家が、絵を見続けるうちに自分の非物質的な身体が画面の無数の細部に着地し、複数化し、多方向に分裂して動き回る——その散らばった身体たちをあらためてひとつの文に収めることが「書くこと」だ、と述べていた。

これも消化の話だと思う。経験が自分のなかで複数化し、散らばり、未消化のまま各所に居座っている。書くとは、散らばったものたちを一つの文に——一つの身体に——収め直すことだ。嘔吐ではなく吸収。排出ではなく統合。一度吐き出したものを、もう一度食べ直す。

胃が痛い夜に、僕は書く。まず吐き出す。それから、翌朝、拾い上げる。消化には時間がかかる。次の一文は、向こうからやってくる。