消極的開化の道具——書くことが透明になる時代に

AIという技術が文明にとって何であるかを、開化論の古い問いに重ねて考える。書くことの消失がもたらす新しい搾取の構造について。

書くことが見えなくなる

ある技術論者の言葉を借りれば、タイプライターの出現によって書字行為は「盲点」となった——記号を配する主体と、書かれる平面との戯れが、主体から切り離された機械的遊戯に取って代わられた、と。一九〇〇年前後の話だ。それから百二十年余り、AIという道具はその盲点をさらに一段深くした。書くことではなく、書くという行為そのものが見えなくなりつつある。

積極と消極のあいだ

明治の知識人たちは「開化」を二つの相で捉えていた。外から能動的に切り拓く開化と、内から受動的に——むしろ防衛的に——整える開化。近代日本に流入した新事物の数々が人々の経験を構造化していったように(1)、AIもまた経験を構造化する装置のひとつだ。しかしその性質は、圧倒的に後者——消極的開化——に親和的だろう。

新しい何かを生み出すためにAIを使いこなせる人間は、おそらく全体の一割にも満たない。残りの九割は、日常に蔓延する地味な摩擦——ブルシット・ジョブと呼ばれるようなもの——を解消するためにこの道具を使う。それは悪いことではない。むしろ正直な用途だ。問題は、この道具が「積極的開化」をもたらすかのように語られる言説のほうにある。

最初のプロンプト

AIが主導して何かを開発するという物語は、構造的に錯覚だ。方向づけを行うのは常に人間の側であり、最初の一行を書くのも人間だ。「めちゃくちゃすごい小説を書いて」という指示は、単純にプロンプトとしての精度が低い。めちゃくちゃすごい小説をAIに書かせるためには、まず「めちゃくちゃすごい小説」とは何かを設計し、言葉にしなければならない。

つまり、AIとはペンやタイプライターに近い。いや、もっと正確に言えば——ペンは手の延長だったが、AIは頭のなかの言葉の延長だ。道具の性能が上がるほど、それを操る側の言語能力が問われる。自分の頭のなかにあるものを日本語(あるいは任意の自然言語)で表現する力。これが新しいリテラシーの境界線になっている。

搾取の新しい形式

ここに、静かな搾取が生まれる。

「言語化」がブームになっている。言語化できる人間が、できない人間より最新の技術を使いこなせる——この能力差は、構造的に搾取を生む。そして搾取の典型的な形式はこうだ。言語化の技術を授けましょうと謳った本を売る。読んでも言語化できない読者をイベントに集める。ファンダムが形成される。次の本が売れる。

このスキームが巧妙なのは、「書かないと書けるようにならない」というライティングの大前提に触れないところだ。読むだけでは書けるようにならない。しかし、読むだけで書けるようになるかのような幻想を維持することで、市場は回り続ける。

——と、博士課程の院生がこんなことを書いている滑稽さは自覚している。言語化を生業としようとしている人間が、言語化ブームを批判する。マッチポンプ以外の何だろうか。しかし、だからこそ言わなければならないこともある。書くとは、読んで身につく技術ではない。書いて、消して、また書いて、それでも届かないと絶望して、それでもまた書く——その反復のなかでしか育たない筋力だ。近道を売る商売は、その事実を隠蔽する。

盲点に立って

かつて幻燈が学校教育に導入されたとき、それは文明そのものを眼前に投影する装置だった(1)。光が知を伝えるという素朴な信仰。いまAIに投影されているのも、似たような信仰かもしれない。

書くことが透明になる時代に、僕たちは何を盲点として抱え込むのか。少なくとも一つ確かなことがある——道具が高度になるほど、最初の一行を書く人間の責任は重くなる。その一行を書けるかどうかは、結局のところ、どれだけ書いてきたかにしか依存しない。

(1) 大久保遼『映像のアルケオロジー—視覚理論・光学メディア・映像文化』青弓社、二〇一五年二月。