書くことの二つの方向
書くことには二つの方向がある——理解されるために書くことと、理解するために書くこと。前者は滑らかで、心地よく、読者の同意を予め織り込んでいる。後者は粗削りで、飛躍があり、書いている本人すら着地点を知らない。
僕が日々やっているのは後者のほうだ。ノートを開いて、断片的な着想を並べ、矢印を引く。論文の改稿構想を整理しようとして、気づけば「文明とは何か」みたいな途方もない問いの前に立っている。調べなければならないことのリストだけが増殖していく。これは進捗なのか、それとも逃避の一形態なのか——正直に言えば、毎回わからない。
ただ、ひとつだけ確信していることがある。言葉を並べるという行為そのものが、対象を「もっとよく見ろ」と強いてくる。整理されたノートは思考の結果ではなく、思考の駆動装置だ。混乱したまま書き始めて、書いたものを読み返して、ようやく自分が何を考えていたのかがわかる。順序が逆なのだ。
止まれない身体
問題は、この「理解するために書く」というモードに入ると、止まれなくなることにある。
動けるうちに動いておかなければ、という焦りがある。いつ電池が切れるかわからない。調子のいい日が三日続いたとして、四日目に突然ベッドから起き上がれなくなる可能性を、経験的に知っている。だから走れるうちに走る。結果、走りすぎて壊れる。壊れたことで「ほら、やっぱり」と予言が自己成就する。
この悪循環を、長いこと気合いや意志の力で解決しようとしてきた。「今日はこのへんで切り上げよう」と自分に言い聞かせる。言い聞かせた三十秒後にはもう次のタブを開いている。意志は、少なくとも僕の場合、制動装置としてはまったく信用できない。
ポモドーロ、あるいは外部化された意志
それで、タイマーを導入した。二十五分作業して、五分休む。あのポモドーロ・テクニックだ。
博士課程の人間が集中力を管理するためにトマト型のタイマー(の概念)に頼っている——と書くと滑稽に聞こえるかもしれない。実際、滑稽だと思う。でも滑稽さと有効性は矛盾しない。
ポイントは、「休む」という判断を自分の意志から切り離すことにある。タイマーが鳴ったら止まる。内容の区切りがよかろうが悪かろうが、止まる。判断のコストをゼロにする。これは怠惰の技術ではなく、持続の技術だ。スプリンターが百メートルを全力で走れるのは、百メートルで終わると知っているからだ。距離が決まっていない全力疾走を続けられる人間はいない。
研究ノートの再編成という思考
ここ数日、論文の改稿に向けて研究ノートを再編成していた。一次資料を読み直し、二次文献との接続を確認し、章立ての構想を組み替える。
やっていて気づいたのは、この「再編成」という作業自体が、新しい問いを生成するということだ。百年以上前に書かれたテクストを、異なる順序で並べ直すだけで、見えなかった布置が浮かび上がる。ある時代の知識人たちが——自覚的にであれ無自覚にであれ——共有していた問題の枠組みが、個々の言説を横断的に見たときにはじめて輪郭を持つ。
文学研究というのは、つまるところ、テクストの再配置の技術なのかもしれない。何を隣に置くかで、同じ一行の意味が変わる。それは批評の恣意性ではなく、言葉というものが本質的に文脈依存的であることの帰結だ。——と、こういう大きなことを言い切ってしまうのが深夜のノートの危ないところで、翌朝読み返すと大抵は赤面する。でも、赤面するような飛躍がなければ、論文は前に進まない。
幸福について
ある批評家のエッセイに、「考えるのは喜びであり、書くのが幸福である」という趣旨の一節があった。幸福とは表現的なものであり、外へ外へと広がっていくものだ、と。
これは真実だと思う。少なくとも、書いている最中の二十五分間——ポモドーロ一個分の時間——には、それに近いものがたしかにある。対象がよく見える瞬間。断片が接続する瞬間。言葉が、自分の意図を超えて、何かを捕まえる瞬間。
その瞬間のために、壊れない程度に、走り続ける。タイマーをセットして。