言葉が裏返る瞬間——ダジャレの記号論

日本語ラップの言葉遊びに宿る構造を、一八世紀美学の記号論から読み解く。ダジャレは芸術の最も古い操作かもしれない。

ある種の言葉遊びは、聞いた瞬間に笑ってしまう。意志とは無関係に。生理的に。文の後半が前半の意味を丸ごと書き換えるタイプの——日本語ラップに頻出するあの構造に出くわすと、脳が処理を終える前に身体が先に反応している。あの笑いはいったい何なのかを、ずっと考えている。

「日本語ラップなんてダジャレでしょ」という揶揄は、ラップを聴かない人間の常套句だ。だが僕はこの命題の語順が逆だと思っている。ラップがダジャレなのではない。ダジャレがラップなのだ。もう少し面倒な言い方をすれば(面倒な言い方が好きなので)、ダジャレとラップは同じ記号論的操作の、異なる密度における実現形だ。

一八世紀の美学では「有縁化(モチヴァシオン)」と呼ばれる概念が重視されていた(1)。記号の表現——音や文字——とその内容——意味——のあいだに、恣意的ではない、必然的な関係が成立している状態を指す。模倣が芸術のパラダイムだった時代、擬音語や象形文字のような「似ている記号」が尊ばれたのはそのためだ。言葉は対象に似ていなければならなかった。

ダジャレは、まさにこの有縁化の操作だ。本来なら恣意的であるはずの言語記号が、音の偶然的な類似によって別の意味と結びつく。そのとき言葉は透明な媒体であることをやめて、それ自体が厚みを持った物質として立ち上がる。笑いは、その転換への身体の応答にほかならない。

ここで思い出すのは、レッシング以降の詩画限界論の伝統だ。各芸術ジャンルはそれぞれ固有の記号体系を持つが、イリュージョンという共通の目的を果たすためにこそ、その記号の特殊性に応じた規則に従うべきだ、と(2)。絵画は色彩や形態という自然的記号で、詩は言葉という恣意的記号で、それぞれのやり方で「まるでそこにあるかのように」感じさせる。恣意的記号を扱う詩人が目指すのは、言葉を限りなく自然的記号に近づけることだった。

ラップのパンチラインが達成しているのは、ちょうどこの操作ではないか。韻を踏むことで言葉の音が意味を帯び、恣意的な記号が自然的な記号に接近する。後半の語が前半の意味を遡及的に塗り替えるとき、聴き手はイリュージョンの只中にいる。言葉が、そうとしか響きえなかったかのように聞こえる、あの一瞬。

だからダジャレを馬鹿にしてはいけない。——いや、笑っていい。笑うべきだ。だがそれは嘲笑ではなく、驚嘆の笑いだ。記号が恣意性を脱ぎ捨てて必然性を纏った瞬間を、身体が正しく祝福した証拠なのだから。

そういえば、プールで泳いだ後に思考がやけにクリアになることがある。あれと、優れたパンチラインを聴いた直後に世界の解像度が一段上がる感覚は、どこかで繋がっている気がする。水に飛び込むことも、言葉に撃たれることも、日常の惰性に亀裂を入れて、ものごとの手触りを一瞬だけ生々しく取り戻す営みだ。——たぶん。

(1) ツヴェタン・トドロフ『象徴の理論』一九七七年、及川馣・一之瀬正興訳、法政大学出版局、一九八七年二月。

(2) 小田部胤久『象徴の美学』東京大学出版会、一九九五年一月。