シャッターの下をくぐる。
中は熱い。冷えた身体には、この熱が痛い。カウンターの奥で油が鳴っている。細かく弾ける音が二秒おきに強くなり、また引く。庫内から出たばかりの指は、まだ他人の指だ。曲がるまでに十を数える。
「氷屋か」
宇田さんは顔を上げずに言う。
「氷屋です」
「座れ。いま揚がる」
椅子は四つ。三つ空いている。壁に酒屋の暦がかかっていて、扇風機が首を振り、油の匂いを店の端まで運んでいく。夜でも外は二十八度ある。ここは三十を超えている。それでも阿久津の肩はまだ濡れて冷たい。
壁際に大きなリュックが置いてある。膨らみきって口が閉まらず、上から紐で縛ってある。阿久津はリュックを見て、それからその横に立っている人を見た。
「千夏。氷屋さんだ」
「知ってる。四日連続で来てる人」
四日間、阿久津の前に皿を置いてきたのはこの人だった。名前は知らなかった。夜中に食う人間は、名前を訊かないという礼儀を勝手に作る。
皿が置かれる。唐揚げが五つ。衣が薄くて、角が立っている。
一口目は熱すぎて味がしない。二口目でわかる。しょうがと醤油。そこまでは誰でも当たる。問題はもうひとつあることだ。奥のほうで舌が一度すぼまって、それから開く。酸っぱいのとは違う。酸が通ったあとの、道みたいなものだけが残っている。
「何が入ってるんですか」
「教えない」千夏が言う。「当てて」
「無理です」
「四日食べてまだわからないなら、才能ない」
宇田さんが鼻で笑った。菜箸で油の面を叩く。弾ける音がまた強くなる。
「三時四十分」
千夏が壁の時計を見て言った。阿久津も見た。三時十二分。
「なにが」
「バス。北の街まで行くやつ。二本先の通りから出る」
リュックの意味が遅れて届いた。あれは旅行の荷物ではない。膨らみきって口が閉まらないのは、持って行くものを選べなかったからだ。
「仕事です」と千夏は言った。「向こうで働くの」
「いつ帰るんですか」
「わかんない」
宇田さんは何も言わない。揚げ続けている。息子や娘が出ていく夜に、油の温度を守ることしかできない人間の背中というものがある。あれは無関心ではない。手を止めたら崩れるとわかっている人の姿勢だ。
カウンターの隅に、手のひらほどのスピーカーが置いてあった。ずっと鳴っていたのに、いま気づいた。低い音が二拍おきに沈む。上に乗っている声は、歌っているのか喋っているのかはっきりしない。
「これ、なに」
「知らない人。去年ずっと聴いてた」
一瞬の幸福、という意味の題らしかった。夜の三時に、油の音と一緒に聴くには出来すぎている。
阿久津は皿の唐揚げを二つ残して立った。
行かないほうが楽だという理由は、その場で三つ浮かんだ。休憩は四時までだ。汗をかいた作業着で人を見送るのは失礼だ。四日しか喋っていない相手の見送りに走る男は、たぶん少し変だ。
理由はいつも三つ以上ある。そして、逃した場合の後悔だけは一つで、しかも一生かかる。楽なほうを選ぶのは、支払いを未来に回すことでしかない。
工場に走って戻った。苅谷さんが台車の前でタバコを吸っている。この工場でいちばん長い人だ。
「氷、ひとつ分けてください」
「どこに出すんだ」
「人に渡します」
苅谷さんは阿久津の顔を三秒見た。それから庫内に入って、割れて商品にならない角を持ってきた。新聞に巻き、麻袋に入れ、口を折って渡す。
「持ってけ。溶けるまでは氷だ」
停留所は柱が一本立っているだけだった。屋根もない。時刻表の紙が、湿気でふやけて波打っている。
千夏はリュックを足元に立てて待っていた。阿久津が麻袋を差し出すと、中を見て、それから笑った。
「氷?」
「溶けます」
「知ってる」
言うべき言葉は道を走りながら考えた。まとまらなかった。頑張れ、は嘘になる。困ったら電話しろ、は電話しない人間にいちばん言ってはいけない言葉だ。
「まずいことになったら、まずいって言ってください」
「うん」
「俺もそうします。ひとりで抱えると、身体のほうが先に壊れます」
千夏は少し黙って、それから「約束」と言った。指も出さない、書類も交わさない、約束と言うだけの約束だった。
バスが来た。電光の文字が流れているのを、読まずに済ませた。読むと距離が実際の数字になる。
乗って、窓際に座って、彼女は麻袋を足の間に置いた。あれは朝までに水になる。何の役にも立たない。役に立たないものを膝の間に挟んで七時間走るという事実だけが残る。
バスが出た。
阿久津は歩道を走った。窓の高さで手を振った。千夏は最初、恥ずかしそうに顔を伏せた。伏せて、それから窓枠の下のほうで、小さく一度だけ振り返した。
歩道は五十メートルで柵に突き当たった。そこで止まった。息が上がって、汗が目に入る。四時二分。
工場に戻ると、苅谷さんは何も訊かずにノコを渡した。缶を引き抜き、割って、袋に詰める。腕は動く。頭は別のことを考えている。
しょうが。醤油。酒。それと、あの酸。
酢ではない。酢はもっと前に出る。梅かもしれない。あるいは、漬けたものの汁だ。何かを漬けて余った液を、捨てずに肉に回した。たぶんそれだ。台所には、捨てられないものを次に回す回路がある。母親や、そのまた前の人がやっていた手つきが、味の奥にひとすじ残る。皿に出た時点ではもう名前がない。舌だけが、そこに誰かの一日があったことを知っている。
食えば消える。書いても再現できない。それでも当てたい。
その夜、上がり際に路地を折れると、シャッターは下まで降りていた。灯りは漏れていない。
阿久津は自分の部屋の台所を思い出した。鍋はある。油はない。
明日、あの店が開いていなかったら、自分で揚げる。