白い木綿の糸を、粗い針目で先に通しておく。本縫いが済んだら、端を摘んで引く。するりと抜ける。抜いたあとの布には、小さな穴が一列に並ぶ。洗えば消える。
躾、と書く。身を美しくする、と書いて、躾と読む。
接続詞を使うと野暮になる、と教わった人がいる。文と文のあいだに「だから」や「しかし」を挟むのは、間の抜けた仕草だと。その人は素直だった。言われた通りに抜いた。何年か経って、困った。
抜けたのは語だけではなかった。
野暮なのは語ではない。語を抜いても立つはずだと信じた、こちらの骨組みのほうだ。「〜した」「〜した」と出来事を並べて、あいだは読む側が繋いでくれるだろうと賭ける。賭けに負けても、書いた側には分からない。負けたことすら伝わらないのだから、賭けにもなっていない。
だから、一度は全部入れて書く。だから。しかし。それに対して。つまり。入れて組んで、立つのを確かめてから、抜く。
抜いた文章と、はじめから入れなかった文章は、字面では見分けがつかない。見分けがつかないのに、同じものではない。
三挙動で習う動きがある。腰、肩、手。慣れたら一挙動でやる。三つを省いたのではない。三つを通った身体だけが、一つでできる。通っていない一挙動と、通った一挙動は、外から見て同じ速さで終わる。差が出るのは、崩されたときだけだ。崩されるまでは、どちらも上手に見える。
芸術家について書かれたものを読んでいて、人物像のほうではなく活動の様態を見ろ、仕事の型や時間の使い方のほうを見ろ、と論じた一節に行き当たったことがある(1)。抜かれる糸を通していた時間は、出来上がったものの上に一目も残らない。残らない仕事のほうにだけ、その人の型が出る。
昨日、電話機を部屋の外に置いた人がいる。意志で我慢するのをやめて、手の届かない場所に置いた。それだけのことで、雨の音が聞こえるようになったという。白露である。虫はいま、いちばんよく鳴く。
これも躾糸だと思った。仕組みのほうで身体を留めておいて、留まったら外す。
ただ、抜けない糸もある。
抜いたら形が崩れるものは、躾糸ではない。本縫いだ。仮に通したつもりのものが、いつのまにか荷重を受けている。呼び方の問題ではなく、糸の太さの問題でもない。位置の問題だ。同じ白い木綿でも、通した場所によって、抜けるものと抜けないものに分かれる。
どちらなのかは、抜いてみるまで分からない。抜いて崩れたら、もう一度縫えばいい。布が保てば。
十九時に一日が始まることがある。始まってしまえば、それは一日だ。十九時から数えて、寝るまでを一日と呼ぶ。呼べば一日になる。何時に始めたかを書いておく場所はどこにもないが、その日にやったことは残る。
今夜は先に糸を通す。だから、しかし、それに対して。四つでも五つでも、多いほうがいい。抜くのは明日の手にやらせる。明日の手は他人の手だから、こちらが惜しんでも平気で引く。
抜いてから、もう一度読む。抜く前より、少しだけ遅く読める。それだけの違いだ。
その、それだけの違いを作るために、白い糸を先に通しておく。
注
(1) エリー・デューリング「プロトタイプ—芸術作品の新たな身分」(二〇〇七年)、武田宙也訳、『現代思想』第四三巻第一号、二〇一五年一月。