一時五分に、最後の組が上がった。
十二番の女が三人、笑いながら靴を返しに来る。カウンターに消毒スプレーの匂いが残る。外は降っていない。湿気が九割ある。自動ドアが開くと、外の空気が中の空気と同じ温度で入ってくる。
灯りを半分落とした。空調が止まる。止まった途端、床が汗をかきはじめる。
郡司がモップの柄で肩を叩いた。
「今日は逆から」
「湿気ですか」
「湿気」
佐久間は十二番から始めた。
機械は青い。横腹に会社の名前が貼ってあって、その上に古いテープの跡が二重に残っている。前は違う色だったらしい。
胴の右に紙が貼ってある。ラミネートの端が剥がれて、中の紙は茶色い。数字が二十行ほど並んでいる。
上の十行はボールペンで、字が斜めに寝ている。その下の五行は太いサインペン。二重線で消された行がいくつかある。
いちばん下に、鉛筆が一行だけある。
——九枚目 すこし多め
薄い。指がこすったところだけ、もう読めない。
「これ、誰の字ですか」
「知らない」
「前の人のじゃないんですか」
「あの人はボールペン。寝た字。上の十行があの人」
「鉛筆は」
「もっと前」
郡司はここに十一年いる。前の人は、郡司が入った年に辞めた。名前は音でだけ覚えている。漢字は知らない。ヨシさん、と呼ばれていた。下の名か、苗字か、誰も確かめないまま十一年が経っている。
佐久間は二年目だ。油の量も、ブラシの高さも、教わっていない。郡司の手を見て、真似した。
来月、機械が入れ替わる。
メーカーの人間が下見に来た。若い。工具箱を床に置いて、まず札を見た。
「これ、手で調整してるんですか」
「してる」
「新しいのは数字で入れます。板ごとに、量を」
「同じにできる?」
「標準のパターンなら、すぐ入ります。いちばん出てるやつです」
「うちの、じゃない」
「……はい」
デモ機を一本だけ通した。一番レーン。標準というものが出た。
その朝、六時の人が来た。佐久間が入る前からいる。カウンターの控えには番号しか書かれていない。いつも入口に近い一本を取る。九枚目に置いて、外へ出して、戻す。
その朝は戻らなかった。三投して、首をひねって、帰った。
紙を買ってきた。ロールで四十メートル。裏が白い包装紙だ。
一番レーンに貼って、機械を通した。油の乗ったところが透ける。剥がして、事務室の蛍光灯に透かした。
板の番号を鉛筆で書き込んでいく。一枚目、五枚目、十枚目。
九枚目のところで手が止まった。
濃い。
札の数字は、九枚目を特別扱いしていない。サインペンの行でいちど増やして、二重線で消してある。誰かが増やして、誰かが取り消した。それなのに、機械は九枚目に多く出している。
「札のせいじゃないですね」
「機械だね」
「直しますか」
「六時の人が」
郡司はそこで止めた。
佐久間はもういちど札を見た。
「あの鉛筆、指示じゃないんじゃないですか」
「なに」
「九枚目を多くしろ、じゃなくて、九枚目は多く出る、って書いたんじゃないですか。見たままを」
郡司が札に顔を寄せた。
「サインペンの人は、指示だと思ったわけだ」
「思って、増やして、増えすぎて、消した」
「消しても出る」
「出ますね」
「どっちでもいいよ」と郡司は言った。「出てるものは、出てる」
十二本ぜんぶ通した。紙が十二枚になった。
床に並べる。後ろにいくほど薄い。その晩は一番から順に流した。十二番の紙は、一番の紙より明らかに軽い。
「機械が温まるからですか」
「知らない」
「湿気の日、逆から流しますよね」
「流す」
「なんでですか」
「ヨシさんがそう言った」
次の晩、十二番から流して、また十二枚作った。
一番から四番が、いちばん濃く出ていた。
朝いちばんに使われるのは、入口に近い一番から四番だ。六時の人も、その四本の中から取る。
理由は紙の上にあった。十一年、誰も口にしていない。手のほうが先に知っていた。
紙が乾くのを待つあいだ、佐久間は事務室の椅子に座っていた。
壁に額が一枚かかっている。表彰状だ。十九年前の日付と、店長の名前が入っている。
「それ、うちが取ったやつですか」
「知らない」
「読んだことないんですか」
「十一年、見てるだけ」
しばらく黙ってから、佐久間が言った。
「郡司さん」
「あん」
「この会社に、」
佐久間は名前を言った。
郡司は少し考えて、首を振った。
「聞かないね。四十一店あるよ」
「二十九までかけました」
「電話」
「休みの日に」
「なんて聞くの」
「その人がいますか、って」
「いたら」
佐久間は答えなかった。郡司もそれ以上は訊かなかった。
入れ替えは水曜の晩だった。
古い機械を外へ出した。据わっていた場所に、車輪の跡が二本残っている。ワックスが減って、そこだけ浅くへこんでいる。指でなぞると分かる。
アプローチのドットは、右から三つ目だけ消えかけている。みんなそこに立つからだ。
若い技術者が画面を出した。板の番号が横に三十九並んでいる。
「標準でいきますか」
「これで」
郡司が紙の束を出した。十二枚。鉛筆の書き込みが入っている。
技術者が一枚ずつめくった。
「九枚目、多いですけど」
「多いまま入れて」
「直せますよ。というか、これ、たぶん前の機械の不具合です」
「不具合のままで」
「……はい」
「あと、後ろのレーンが薄いです」
「それも入れて」
「わざとですか」
「わざと」
「新しいのは温度で補正しますから、勝手には薄くなりません」
「じゃあ、薄くなるように書いて」
技術者は少し黙ってから、指を動かした。一番から十二番まで、少しずつ減っていく数字を打ち込んだ。減る量を決めて入力するのは、たぶん初めてだったのだろう。
「順番はどうしますか」
「順番も入る?」
「入りません。どこから流すかは、押す人が決めるので」
「じゃあ、こっちで」
四時半に、一本目を流した。
音が違う。古いのは唸った。新しいのは、ほとんど鳴らない。ブラシが板を撫でる音だけがする。溶剤の匂いは同じだ。少し甘い。
十二番から順に、一番まで。
五時五十分に、外の空が白くなった。
六時の人が来た。カウンターに番号を出して、一番を取る。靴を履く。左の足だけ二回、床を擦る。いつもの動きだ。
九枚目に置いた。
球は板の外へ出て、途中でいちど粘って、戻った。高い音がした。板の上より、天井のほうで鳴った。
二投目も同じところに置いた。同じところで折れた。
六時の人は二ゲームやって、何も言わずに帰った。
佐久間は事務室から紙を持ってきた。名刺くらいに切って、新しい機械の胴に貼った。
鉛筆で書いた。
——九枚目 すこし多め
郡司が横から見た。
「もう数字に入ってるだろ」
「入ってます」
「いらないだろ、それ」
「いります」
郡司は何も言わずに、モップを片づけた。
外に出た。空が白い。湿気は残っている。舗装がまだ乾いていない。
ポケットに紙が入っている。店の名前が十二、残っている。
今日はかけない。明日でもいい。
九枚目には、明日の晩も多く出る。誰も頼んでいない。