第4話

沸かしてます

連載「継ぎ足してます」最終話。雨が六日続いて気温が落ち、工場は昼の時間に戻る。阿久津の夜が終わる週に、録音技師がテープの裏側を回した。

六日続けて、雨が上がらない。

気温が二十四度まで落ちた。八月の半ばに二十四度だ。路面は灼けない。正午に犬が歩いている。工場は元の時間に戻すことを決めた。来週の月曜から、朝八時に始めて、夕方五時に上がる。

阿久津の夜は、あと五日で終わる。

三日前、川沿いの低いところが水に浸かった。電気の設備がやられて、まだ来ていない地区がある。氷が出ていく。魚屋、総菜屋、公民館。缶を引き抜く速さが追いつかない。凍りきっていないものを出すわけにはいかないから、待つしかない。十四時間は十四時間だ。急かしても縮まらない。

「暑いより厄介だ」と苅谷さんが言った。

阿久津が袋を肩へ上げようとすると、苅谷さんが止めた。

「担ぐな」

「いつも担いでますけど」

「だから腰にくるんだ。上げるんじゃねえ。乗せろ」

苅谷さんは自分の腰の横を叩いた。ここに置いて、あとは氷が行きたがるほうへ歩く。逆らうと腰が飛ぶ。三十年やってきた人の言うことなので、その通りにした。

二袋目で分かった。持ち上げていない。運んでもいない。氷が落ちようとする向きに、自分の歩幅を合わせているだけだ。楽になった。力の出どころが自分だと思っているうちは、重い。

三時に休憩が入る。

路地を折れると、シャッターは腰まで上がっている。雨が斜めに入って、敷居のところだけが濡れて黒い。くぐる。中は熱い。

「氷屋か」

「氷屋です」

「座れ。いま揚がる」

椅子は四つ。四つとも空いている。壁際も空いている。四ヶ月ぶん荷物が置いてあった場所は、床の色が少しだけ違う。

皿が来る。五つ。衣が薄くて、角が立っている。

「宇田さん」

「あん」

「タレって、いつ沸かすんですか」

「五時だ」

「見に来ちゃだめですか」

「上がりは六時だろ」

「六時です」

「じゃあ無理だ」

宇田さんは菜箸で油の面を叩いた。それで終わりだった。

戸口で音がした。

明日持ってくる、と言って、それきり来なかった人が立っていた。桐野は肩から黒い箱を下げ、袖から水を垂らしている。

「北で延びました」と桐野は言った。「行ったら、もう無かったんです。二週間遅かった」

工場ごと消えたのではない。機械はまだ動いていた。モーターを新しいのに替えたので、あの唸りだけが鳴らなくなっていた。桐野はそう説明して、飯を頼んだ。

テープが曲の切れ目に来た。

——冷えてます、冷えてます。

四十秒。桐野は箱に手をかけたまま動かなかった。終わってから、宇田さんのほうを見た。

「宇田さん。これ、下にもう一人いますよ」

「なんだって」

「A面の下に、B面が写ってます。巻かれてるあいだに、磁気が隣の層へ移るんです。十四年ぶん、ずっと隣にいたので」

「聞こえねえよ」

「聞こえます。うちの機械なら。逆から、薄く」

宇田さんは油から目を離した。離すところを、阿久津ははじめて見た。

桐野が耳当てを差し出す。宇田さんは片方だけ耳に当てて、十秒ほどそのまま立っていた。それから外した。

「回せ」

「いいんですか」

「聞こえてんなら、もう回ってんだろ」

B面には、同じ声が何度も入っていた。

一本目は雨だった。声の後ろで屋根が鳴っている。二本目はトラックが通って、途中から潰れた。三本目で声が裏返り、笑い声が入った。四本目、五本目。六本目は最後まで通ったが、終わりのほうで息が足りていない。

七本目の終わりに、若い男の声が近くで言った。

——これでいいすか。

少し間があって、別の声が答えた。低い。今より速い喋り方だが、同じ人の声だ。

——もういっぺん。

そこでB面は切れていた。八本目は入っていない。八本目はA面にある。

「知ってる」と宇田さんが言った。「俺が言わせたんだ」

阿久津は箸を置いた。

「朝の売り声じゃないんですか」

「売り声だよ。ただ、あれは店の前でやらせたんじゃねえ。うちに呼んで、そこに立たせて、やらせた」

「客が」と阿久津は言った。「街で鳴ってた声だと思って、座ってますよ」

「思ってるだろうな」

「訂正しないんですか」

「してねえ」

宇田さんは油の温度を見ている。十四年、そこを見ながら黙っていた人の背中だった。

桐野が首を振った。

「訂正することないです」

「嘘だろう」

「売り声は、はじめから演技です。地声で氷を売る人はいません」

桐野は録音機の目盛りを戻しながら言った。七本目までは地声が残っている。息の乱れも、笑いも、うまくいったときの照れも入っている。八本目にはそれがない。型に入っている。

「宇田さんが待ったのは、地声が抜けるまでです。抜けたやつを残した。だからいまも効くんですよ」

「本人のもんじゃなくなるってことか」

「本人のものじゃなくなったから、残ったんです」

桐野は北の録音も出した。

台所の音の向こうで、年寄りの女がゆっくり口ずさんでいる。よく落ちます、よく落ちます。もう売っていない洗剤の声だ。旋律は同じ運びをして、同じところで下がる。

三つ目もあると桐野は言った。海のほうで録れた。言葉は全然違う。旋律だけが同じ形で、言葉のところだけが入れ替わる。

阿久津は皿の上の唐揚げを見ていた。

旋律には作った奴がいない。声は八回やって型になった。タレは三十四年前に受け取ったもので、その前は分からない。

三つとも、始めた人間がどこにもいない。いたはずなのに、いない。始めた人間がいないものだけが、こうして残っている。

工場に戻って、缶を引き抜いた。腰に乗せて、行きたがるほうへ歩く。

歩きながら気づいた。

夜が終われば、三時の飯はなくなる。代わりに、五時が空く。

月曜の朝、五時に路地を折れた。

シャッターは膝まで開いている。中は暗い。灯りは一つだけついていて、その下に寸胴がある。

前の晩のぶんが冷えて、上に脂が白く固まっていた。宇田さんが火を入れる。白いところが端から透きとおって、しばらくして全体が動きはじめる。

「これ、持ち上げるんですか」

「上げねえ。回すだけだ」

阿久津は寸胴の縁に手をかけた。持ち上げようとして、やめた。腰に乗せて、鍋が行きたがるほうへ回した。

灰汁が寄る。玉杓子で引く。晒しを張ったざるに通す。落ちきるまで待つ。減った分を足す。醤油。酒。砂糖。しょうが。にんにくは少ない。

「これだけですか」

「これだけだ」

「毎日ですか」

「毎日だ。休みも来る。沸かさねえと悪くなる」

桐野が三脚を立てて、マイクを鍋の縁から三十センチのところに置いた。漉すときの音を録るという。ざるを通って落ちる音は、雨に少し似ていた。

「これ、たぶん誰も録ってません」

「録るもんじゃねえよ」

「録るもんじゃないから、消えるんです」

阿久津はこの鍋のことを考えていた。四ヶ月ぶん、あの人の手が通ったものが、まだこの中にいる。今日も一日ぶん薄くなって、抜けない分だけ残る。手紙は来ない。来ないままでいい。約束は一つしかしていない。まずいことになったら、まずいと言う。言われていないということは、言うほどではないということだ。

小皿に一杯もらった。熱い。しょうがと醤油。奥で舌がいちど狭くなって、それから開く。開いたところに何もない。

「分かりません」

「分からねえよ」

桐野が機材を畳んで、電話を出した。

「録音じゃないやつ、一曲だけいいですか」

高いところから撮った映像みたいな音がした。誰も何も言わなかった。宇田さんは鍋を見ている。三分ほどで終わった。

外に出た。

雨は上がっていた。空が白い。向かいの駐車場に車が三台。十四年前、あそこに氷屋があって、若い男が声を出していた。残ったのは八本目だけだ。

工場は八時からだ。三時間ある。

今夜から、阿久津は夜に眠る。眠っているあいだに缶が凍る。誰かが引き抜いて、割って、袋に詰める。ノコが氷に入るとき、よく凍ったやつは高く鳴る。

阿久津は聞いていない。

聞いていなくても鳴っている。たぶん、そっちが本当だ。

(完)