保留音には継ぎ目がある。
同じ四小節が戻ってくる。三度目で気づいた。最後の音が、わずかに切り詰められている。テープの端と端を貼り合わせたところで、拍がひとつぶん足りない。そこだけ、音楽が音楽であることをやめて、録音であることを白状する。十分も聞いていれば、誰でも気づく。気づいてしまえば、もうその一点しか聞こえない。
越してきた部屋には、まだ線が通っていない。通っていない理由を訊くために、一日、電話をかけ続けた。
四つの部署に回された。どの部署の人も、正しいことを言った。ここは契約の窓口であって設備の担当ではない、という説明は正しい。設備の担当が言う、宅内の工事は別会社の管轄だ、という説明も正しい。別会社が言う、まず契約元から連絡票を出してもらう必要がある、という説明も、たぶん正しい。誰ひとり間違ったことを言っていない。それなのに、日が暮れて、何も決まっていなかった。
こういうとき、人は制度が壊れていると言う。俺も言いかけた。
机の上に三冊積んである。著者は二人で、姓は同じで、血縁はない。片方は小説の読み方について書いた人、もう片方は詩を書いた人だ。同じ字が並んでいるだけである。
——そして、受話器の向こうで名乗った人の姓も、その字だった。
(ここで意味を読もうとするのは、たぶん間違っている。同じ姓の人は、この国に何十万といる。それでも読んでしまうのだから、読むというのはそういうことなのだろう。)
小説の読み方について書いたほうの人に、ひとつ規則がある。テクストはまちがわない、と信じること。ほんの細部にこそ、一見して錯誤と見えるような表現にこそ、可能性が潜んでいる。だからたやすく、これはまちがっている、と言ってはならない。言った瞬間に、読みは終わる(1)。
この規則を、電話の台本のほうに当ててみる。
当ててみると、たらい回しは故障ではなくなる。あれは、設計されたとおりに動いている姿だ。ひとつの窓口が全体を持たないように、責任が分けて置かれている。分けたのは失敗ではなく、意図である。どこを切っても全体が出てこないように分けてあるのだから、切るたびに「ここではない」が返ってくる。返ってくるのが正しい。正しく動いているものを前にして、壊れている、と言うのは、読みの放棄だ。
もっとも、その人自身が言うように、これは方法ではない。立場である。イデオロギーだと言い切っている(2)。まちがっていないことにする側に立つ、というだけの話で、立ったからといって線が通るわけではない。しかし立場を決めないと、細部が見えない。
制度には喉がない。
文書はある。約款も、手順書も、画面に出る案内文も、おそらく俺が一生読まない分量である。だが紙は音を出さない。音を出さないものは、怒られることもできない——怒るというのは、宛名を書いて投函する行為ではなく、音のするほうへ身体ごと向き直る反射だから、向き直った先に音源がなければ、そもそも成立しない。だから制度は喉を借りる。借りた喉から出た言葉は、その喉のものに聞こえる。
怒りは、音のするほうへ飛ぶ。
そういう設計なのだと気づいたとき、抑えるとか堪えるとかいう言い方が、急に的外れになった。抑えるというのは、飛ばす先が合っていて、量だけを調節する話だ。ここで起きているのは量の問題ではない。宛先の問題だ。宛先の書かれていない怒りが、たまたま音のしたところに着地する。着地させたら、設計が閉じる。
だから返さなかった。優しさではない。閉じさせないためだ。
(もっとも、返さなかったからといって、あの人の一日が軽くなったとは思わない。四回謝られた。四回とも、謝る理由のない人が謝っていた。謝らせる仕組みのほうは、こちらが黙ったくらいでは動かない。)
二十分、同じ線の上にいた。
顔を知らない。歳も知らない。窓のある部屋にいるのかも知らない。向こうも同じで、こちらの部屋が段ボールで埋まっていることを知らない。互いに、相手を見通す材料を何ひとつ持っていない。
見通せないというのは、ふつう、欠けていることだと思われている。逆だと言いたくなる。次がないから、見抜こうとする理由がない。見抜こうとしないぶん、二十分だけ、まっすぐ隣にいられる。電話というのは、隣り合うことの最小の形式なのかもしれない。顔がなく、来歴がなく、続きがない。それでも、隣ではある。
親しさを、相手の内側が見えるようになることだと考えている人がいる。俺はそう思わない。見えないままで並んでいられた時間の長さのほうが、よほど親しさに近い。
三冊目が詩集である。
なんという駅を出発してきたのか もう誰もおぼえていない ただ いつも右側は真昼で 左側は真夜中のふしぎな国を 汽車ははしりつづけている(3)
その週、俺の右の頬は、こちらの言うことを聞かなかった。引っ越しの疲れが抜けていなかった。左は平気だった。同じ顔のなかで、真昼と真夜中が同居していた。
詩は電話の話ではない。抑留の話である。並べて読むのは筋違いだ。しかし、その週に開いた頁が右と左に割れた国を走る汽車の話だったという事実のほうは、消えない。
そこにはたしかに俺もいる 誰でも半分はもう亡霊になって もたれあったり からだをすりよせたりしながら まだすこしは 飲んだり食ったりしている(3)
半分はもう亡霊になって、もたれあう。あの二十分は、たぶんそれに近かった。どちらも全体ではない。向こうは会社の半分で、こちらは越してきたばかりの部屋の半分で、残りの半分は、どちらも誰にも預けていない。預けていない半分どうしが、線の上でもたれあっていた。
工事の日は決まっている。決まるまでに一日かかり、その一日は戻ってこない。
今日のうちに、ひとつ分けておく。
片方——線を引いた側に対する怒りは、そのまま持つ。薄めない。設計が意図的なら、怒りも意図的でいい。もう片方——受話器の向こうの声に対しては、何も残さない。同じ日のうちに、この二つは分けて置ける。分けられる、ということだけが、今日わかったことだ。
保留音は、次にかけたときも同じ継ぎ目でつまずく。つまずくたびに、あれが録音であることがわかる。
人の声のほうには継ぎ目がない——と書きかけて、やめた。逆だった。継ぎ目しかなかった。台本と台本のあいだで、あの人は何度も息を継いでいた。案内文のどこにも、息継ぎの位置は書かれていない。書けないからだ。
息を継ぐところにだけ、人がいた。
注
(1) 石原千秋『テクストはまちがわない—小説と読者の仕事』筑摩書房、二〇〇四年三月、三〜四ページ。
(2) 石原千秋『読者はどこにいるのか—書物の中の私たち』河出書房新社、二〇〇九年一〇月、三〇ページ。
(3) 石原吉郎「葬式列車」『サンチョ・パンサの帰郷』思潮社、一九六三年。