形象を欲する

ある批評家は作者を殺してから、その形象を欲した。その手順についての、二つの声の記録。

ある批評家が書いている。「制度としての作者は死んだ」(1)。有名な宣告だ。だが同じ書物のなかで、こうも続けている——「テクストの内部に、何らかの形で、作者を私は欲する。私は彼の形象を必要とするのだ」。

殺しておいて、欲する。矛盾ではない。おそらく手順だ。

以下はその手順をめぐる対話の記録である。日時も場所も不明。ただ、ひどく蒸す日だったらしい。


 対象化できるなら、すればいい。名前をつければ距離ができる。

 距離ができて、それで。

 「それ」が「俺」ではなくなる。俺のなかにいる何か、になる。切り離せる。

 名前をつけた瞬間、それは形象になる。輪郭を持ち、観察可能になり、場合によっては——欲望の対象になる。

 苦痛を欲望する人間がどこにいる。

 あの批評家がそうだった。作者を殺しておきながら、テクストの内部に作者の形象を求めた。殺す行為と欲する行為が矛盾しないのは、殺すことによって初めて形象が立ち上がるからだ。生きている全体には輪郭がない。死んではじめて顔が見える。

 対象化とは殺すことだと。

 生きた混沌を形象に変換することだ。

 ある朝、頭のなかで起きていることを「症状」と呼ぶことにした人間がいるとする。

 それは対象化だ。

 「これは俺ではない。これは病が映している映像だ」。そう繰り返すことで、少しだけ息がつけるようになった。

 翌日は。

 翌日、「症状」として切り離したはずのものが前よりも鮮明に見えるようになっていた。名前をつけたら解像度が上がった。

 形象化の副作用だ。解像度はそのまま新しい苦しみの精度になる。

 では名前をつけないほうがいいのか。

 名前をつけないということは、没入し続けるということだ。十八世紀のある美学者は、画中の人物が自分の行為に完全に吸い込まれ、こちらを見ない状態をそう呼んだ(2)。没入。自分を観る視線を持たないまま、苦痛のなかに住み続けること。——それもひとつの在り方ではある。

 在り方、と呼ぶにはきつすぎる。

 ……

(窓の外で何かが鳴っている。蝉か室外機か判らない)

 もうひとつの道は。

 ある。対象化はする。形象は生まれる。だがそれを距離のための道具ではなく、対話の相手にする。

 形象と対話する。

 あの批評家が死んだ作者の形象を欲したように。宣告のあとに来たのは無関心ではなく欲望だった。形象を欲するとは関係を欲するということだ。関係があるなら、ひとりではない。

 対象化の果てに孤独ではなく関係が生まれると。

 殺された者が宴席に現れることがある。招かれてもいないのに。

 呪いか。

 わからない。贈り物かもしれない。

 お前は誰だ。

 お前が名前をつけたものだ。


外は体感三十七度。蝉はまだ鳴いていないか、鳴いていて聞こえていないか。

書くことは対象化だ。何かを殺す。形象が立ち上がる。——俺はそれを欲している。

(1) ロラン・バルト『テクストの快楽』(一九七三年)、沢崎浩平訳、みすず書房、一九七七年四月、pp.51-52。

(2) マイケル・フリード『没入と演劇性——ディドロの時代の絵画と観者』(一九八〇年)、伊藤亜紗訳、水声社、二〇二〇年七月、pp.33-34。