二十六度。 湿度、九割。 薄い雲。 日照は十三時間ということになっている。
数字だけなら涼しい。 皮膚はまだ信用していない。
昨日の分の水を、 今日の身体が飲んでいる。
もう飲まない、と言った。 何度目かは数えていない。 数えないことにしている。
誓いは本番ではない。 毎回、予行だ。
本番が来ないから、 何度でもやれる。
南のほうの、大きな川。 金と朱の舟が、列を作って漕ぐ。 櫂が、同じ角度で水に入る。
あれは予行だと言われている。
岸に人が並ぶ。 写真が撮られる。 その日の売上が立つ。
見物のいる予行を、 予行と呼ぶのは無理がある。
本番と同じ数の櫂が、 本番と同じ速さで、 本番ではないという札を下げて、動く。
札のほうが嘘だ。
数十年に一度しか出さないものは、 本番の形でしか練習できない。
一度きりのものは、 一度きりの姿でやるほかない。
だから毎回が本番で、 どれも本番ではない。
予行が本番のためにあるのではない。 本番が、予行を続けるための口実だ。
来年で百四十年になるらしい。
十年前の節目には、 器と絵が並べられ、 島国の古い小説について、 遠い大学に人が集まって喋ったそうだ。
そうだ、と書く。 俺は行っていない。 行かないだろう。
ここへ来るものは、 毎回、誰かの喉を一度通ってくる。
通ってきた分だけ、 少し温い。
百二十年前、 遠い雑誌が、 その年の世界の本を七つ並べた。
帝国の交易の話。 幽霊ばなしを集めた本。 放蕩者の話。 離婚の話。
そのなかに、島国の小説が一つ入っている。
題は、鳥の名だ。
初夏に来て、 血を吐くまで鳴くと言われる鳥。
いまその本を読む者は、ほとんどいない。
読まれなくなったあとで、 その本は南の言葉へ渡った最初になった。
順番はどちらでもいい。 渡ったのは紙のほうだ。
その名の鳥が向こうの林にいるかどうか、 俺は知らない。 確かめた者がいるかどうかも知らない。
棚は、名のほうを受け取る。
棚に載るというのは、 種類にされるということだ。
悲恋。 家庭。 近代。 世界文学。
どれも後から貼られた札で、 貼られた側からは読めない。
札を貼る手だけが、 どこにも分類されない。
床が震えている。 窓の桟に、赤い埃が溜まっている。
国境で判が押される。 係の手で、綴りが一文字だけ変わる。
変わったまま、次の国へ入る。 訂正しない。
どちらが本当かを決める役所が、 どこにもない。
翻訳とは、たぶんこれのことだ。 渡った先で、一文字ずれる。 ずれたほうが、あちらでは通る。
欲しいものを数えてみた。 あまりない。
飯がうまければいい。 広さは要らない。
譲れないものが一つだけあった。 年に一度、二週間。
それを守るために暮らしを組む、 というのが今までの順序だ。
逆にしてみる。
向こうに机を置く。 こちらへは、言葉だけを送る。
灯りの下に屋台の出る通りが近ければ、 それでいい。
夢物語、という言い方がある。 語るだけなら金がかからない、という意味だ。
これは、もうそうではなくなってきている。 決めていないだけだ。
決めていないあいだも、 身体はもう半分あちらにいる。
——ということは、 予行はとっくに始まっている。
始まっているものを、 人は、まだ始めていないと呼ぶ。
作りかけのものには、 いまの姿しか書かれていない。
なぜそこを直したのか、 どこにも残らない。
半年後に自分が来て、首をひねる。 半年後の自分は他人だ。
他人からは、返事が来ない。
だから別の紙に書いておく。 捨てたもの。 捨てた理由。 迷っていた時間の長さ。
宛先は、まだいない。 いないところへ出す。
出す、と呼んでいいのかは分からない。
鳥は、こちらの林で鳴いている。 名前だけが、向こうの棚で眠っている。
どちらも本番ではない。 どちらも、取り消せない。
本番が来ると思っているうちは、 たぶん来ない。
櫂は今日も同じ角度で落ちる。 落ちた分だけ、川が後ろへ流れていく。
外は二十六度。 湿度、九割。
まだ決めていない。 決めていないまま、水を飲む。
コップの底に、光が溜まっている。