八秒うしろ

深夜の生放送には、音を八秒だけ溜めてから外へ出す箱がある。落とす指を持っているのは喋っている本人ではない。卓をはさんだ二人の、放送のあとの会話。

「これ、要ります?」

江口が卓の端を指した。手のひらほどの黒い箱で、面に数字がひとつ出ている。8。

真下はケーブルを巻く手を止めなかった。

「八秒ぶん溜めてから外に出してます。こっちが喋ってるのと、電波に乗ってるのが、八秒ずれてる。電話をつなぐときだけ外します。外したあと、また溜まるまでに八秒かかるので、そのあいだは何も守ってないことになります」

「じゃあ電話の日は要らないでしょう」

「電話の日は要らないです」

江口は原稿を台に伏せた。表紙の角が反っている。

「俺、たぶん、やめます」

真下は巻いたケーブルをフックに掛けた。

「後半の尺、三分削っていいですか。曲を一本足したくて」

「足せます」

真下はキューシートの端に、小さく時刻を書いた。二十二時四十一分。

二十三時四十分。後半に入る。前半は日本語で、後半は向こうの言葉でやる。江口が始めたのは八ヶ月前だ。原稿は自分で書ける。書いたものを読むこともできる。生で入ってくるものだけが、速い。

画面にメッセージが流れていく。

「あの人、また来てる」と江口がマイクを切って言った。「打つのが異常に速いんですよ。こっちが一行音にしてるあいだに三行増える」

「速いですね」

「嫌いじゃないです」

江口はマイクを戻して、画面の一行を読み上げた。読み上げて、そのまま次の塊に入った。文字の切れ目が見えていなかった。

真下が親指でボタンを押した。箱の数字が0になった。スタジオの中では江口の声が続いている。外に出ているのは、下に敷いてある曲だけだった。数字が1から上がりはじめる。

江口は気づかずに次のメッセージへ移った。

零時三分。送り出しが自動の曲順に渡って、卓のランプが二つ落ちた。江口はヘッドホンを首にかけた。

「さっき、落としました?」

「落としました」

「どこですか」

「三つめの、いちばん後ろです。名前が書いてありました。本名のほうです。あなたは続けて読みました」

江口は画面を戻した。文字の列を目で追って、途中で指を止めた。

「切れ目が見えないんですよ。どこまでが文で、どこからが名前か。音にしてからじゃないと分からない」

「音にしてから分かるまでが、八秒です」

「八秒?」

「この箱、六で出てきます。工場の設定が六秒なんです。向こうの言葉の回だけ八にしてあります。あなたの顔が変わるまでを、何週か見ました。六では間に合わなかったので」

江口は画面から目を上げた。

「それ、気持ち悪くないですか。人の顔を見て秒を決めるの」

「気持ち悪いと思います。でも六だと出ます」

「出ますか」

「出ます」

江口はしばらく黙っていた。それから、画面のいちばん下を指で弾いた。

「本人は、出してもよかったかもしれない」

「訊いてからです」

「訊いたら、いいよって言いますよ、あの人」

「じゃあ来週から出せます」

ダクトが天井で鳴っている。真下はキューシートを裏返して、揃えた。

「もうひとつあります」

「なんですか」

「終わりの八秒、出てないです」

「は?」

「切り替えは時計で決まってます。零時ちょうどに自動の曲順へ渡す。渡した時点で、箱の中にはまだ八秒ぶん残ってる。残ったまま渡すので、最後の八秒はどこにも出ません」

「最後の八秒って」

「『また来週』のところです」

江口はヘッドホンの片方を指で押さえて、外した。

「八ヶ月ぶん?」

「八ヶ月ぶんです」

「誰も聞いてない」

「ここでは聞こえてます」

「ここって」

「この部屋です」

江口は笑おうとして、やめた。椅子の背に体を預けて、天井を見た。

「夜に三つやってるんですよ。向こうの言葉と、百年前の雑誌を順に読むやつ——どの号も国の話ばっかりしてる——あと、機械に手順を渡すための書き方。どれも途中で、どれも終わらない。頭の中の同じ棚に三つ乗ってて、一個動かすと二個落ちる」

「落ちますね」

「で、いちばん軽いやつから手を離すじゃないですか。火曜のこれが、いちばん軽い」

「軽いですか」

「局に迷惑かけてるし」

「かけてないです」

「……そこは即答なんですね」

真下は卓に向き直った。つまみをひとつ下げる。残っていたランプが消えた。

「マイク、生きてます。外には出ません。箱だけ通します」

「なにを」

「二十二時四十一分に言ったやつを、もう一回言ってください。八秒あとに、自分の耳に返ってきます」

「覚えてるんですか」

「書いてあります」

真下は読み上げなかった。ペン先で、キューシートの端を一度だけ叩いた。

「意味あります、それ」

「ないかもしれません。ただ、あなたが落とす側に回ったことが一度もないので」

「落とす側」

「ボタンを持ってるのはこっちです。言う人が押すと、押す前に出てます。だから別の手が要る。逆に言うと、こっちは何を落としたのか、あとであなたに言わないといけない」

江口はヘッドホンを両耳にかけ直した。マイクを引き寄せて、口を少し離した。

「……俺、たぶん、やめます」

ヘッドホンの中は無音だった。卓のメーターは動かない。箱の数字が0から上がっていく。3、4、5。

七のところで江口が笑った。

「長いな」

八で、声が返ってきた。自分の声は、言ったときより遅く聞こえた。「たぶん」の前で息が一度止まっている。止まっていたことを、言った本人は知らなかった。

江口はヘッドホンを押さえたまま動かなかった。

「もう一回いきますか」

返事はなかった。真下はボタンの上から指を離した。箱の数字は8のまま動かない。外では、組まれた曲順の一本目が、もう半分を過ぎていた。