誰も来ない回

古い雑居ビルの四階に、十日だけお化け屋敷が立つ。客の入らない回を、決めたとおりに歩く者がいる。

タッカーの音が天井に当たって戻ってくる。

脚立の上で、笹倉が暗幕の端を打っていく。四階は三年前まで学習塾だった。壁の上半分だけが白くて、下半分には腰板の色が残っている。打つたびに、埃が斜めに落ちる。

「あと一間ぶん」

下から三輪が布を送った。

通路は段ボールと単管でできている。入って三回折れて、出口がもとの戸の隣に来る。歩けば二十歩しかない。折るのは距離を稼ぐためだ。照明は二つめの角に一か所だけ、クリップ式の電球をひとつ。

「暗いほうが広く見える」と笹倉が言った。

「見えないだけでしょう」

「同じことだ」

三輪がこの階に上がったのは二十年ぶりだった。ここは洋裁の学校だった。窓際の机で、裾に鉛を入れる練習をした。いまその窓は暗幕の裏にある。

紙袋から出てきたのは紫の布だった。裏地の余りを裁って、フードをつけたケープに縫ってある。

「着せてみて」

笹倉がトートから熊を出した。座って四十センチほどで、毛はもう寝ている。首のところで結んでも、ケープは肩から前へ滑っていった。二度やって、二度落ちた。

「肩がない」

「ないね」三輪は熊の背を撫でた。「肩のないものに着せるのが、いちばん難しい」

三輪はケープを膝に広げ、裾を折り返した。カーテン用の鉛テープを細く切って、三か所に入れる。まつり縫いで閉じていく。針の音はしない。糸を引くときだけ、布が小さく鳴った。

もう一度かけると、ケープは落ちなかった。重さが下から引いて、肩のないところに形ができていた。

「この床で習った」と三輪が言った。「同じことを」

笹倉は二つめの角に丸椅子を置いて、熊を座らせた。電球の真下に入れる。自分はその隣、暗幕と段ボールの隙間に立った。

「通ってみて」

三輪は入口から入り、三回折れて、出てきた。

「見えた?」

「熊が見えた」

「ほかには」

「いなかった」

三輪は首を回して、いま出てきたほうを見た。笹倉が隙間から出て、手を上げた。五十センチの距離だった。

人は明るいほうを見る。暗いほうは、見たことにならない。熊はそのために座っている。

六時に開ける約束だった。商店会の人が看板と釣り銭を持って上がってくる、と聞いていた。五時四十分に電話が鳴って、今日は行けないという話になった。看板は下の花屋に預けてあるという。

笹倉が取りに降りて、戻ってきて、戸の横に立てた。無料、スタンプあり、と書いてある。字は去年のままだ。

六時に、三輪が受付の机のボタンを押した。鈴の音と、何かを引きずる音が十二秒。笹倉は二つめの角に入った。

誰も来なかった。

六時半に、笹倉は一周した。入口から入って、三回折れて、出口から出た。誰もいない通路を、客の速さで歩いた。熊の前で立ち止まり、椅子の向きを少し変えた。

「何してるの」

「見てた」

七時にも一周した。

三階は空いている。二階も空いている。エレベーターがときどき勝手に上がってきて、戸を開けて、閉めて、降りていった。階段の踊り場から風が入る。笹倉は上着の前を開けたままにしていた。

八時までに、三組が四階に上がってきた。三組とも、看板を読んで、エレベーターのボタンを押し直して降りていった。

三輪が缶のコーヒーを二本買ってきて、踊り場の段に置いた。段は冷えていた。

「下の店、まだやってる」

「あとで」

あとでとは言ったが、笹倉は机に戻った。

八時五十分、エレベーターが開いて、子どもが出てきた。スタンプの台紙を持っている。あとから出てきた大人は、ホールのベンチに座った。

「入れますか」

「入れる」

三輪がボタンを押した。鈴は鳴らなかった。押し直しても鳴らなかった。子どもは待っていた。

「いいよ」と笹倉が言った。「そのまま」

笹倉が先に入って、角についた。

子どもの足が段ボールの向こうで動いていく。一つめの角を曲がった。笹倉は靴の底を床にこすった。ゆっくり、二回。足が止まった。それから丸椅子をほんの少し引いた。脚が床を鳴らして、熊が揺れた。

子どもは逃げなかった。電球の下に入って、熊の前に立った。長く立っていた。

「これ、肩がないのに着てる」

笹倉は答えなかった。

「落ちないの」

「落ちない」と、暗いほうから声がした。

子どもは声のほうを見た。少し経って、輪郭が分かったらしい。驚かなかった。

「見えなかった」

「見えないように立ってる」

笹倉が出てきて、ケープの裾を持ち上げた。「ここに、重いのが入ってる」

子どもは裾を指で挟んだ。

「かたい」

「鉛。カーテンのやつだ」

子どもはフードを直した。熊の耳が片方、布の外に出ていたのを中に入れて、それからまた外に出した。出したほうがいいと決めたようだった。

「閉めたら、これどうするの」

「ここに置いていく」

「ひとりで?」

「ひとりで」

子どもは熊の頭に手を置いて、二回叩いた。それから出口から出ていった。

三輪が台紙に判子を押した。かぼちゃの形で、インクが薄かった。子どもは台紙を顔の高さに持って、ベンチのほうへ歩いていった。エレベーターの戸が閉まった。

九時に戸を閉めた。

三輪が机の下に手を入れて、スピーカーの線を引っぱった。プラグが半分抜けていた。昼に掃除機をかけたときかもしれない。

押し込むと、鳴った。鈴と、引きずる音。十二秒。

通路には誰もいない。

「なくてよかったね」と三輪が言った。

「そう思う」

笹倉は暗幕を半分下ろした。三輪は紫の端切れを紙袋に戻している。

「さっきの、六時半のとき」と三輪が言った。「誰も入ってないのに、ぜんぶ歩いてたでしょう」

「歩いた」

「意味ある?」

笹倉は電球のクリップを緩めて、向きを下に戻した。

「開けてるあいだは、やる。そう決めてある」

「決めたのは誰」

「こっち」

三輪は笑わなかった。うなずいて、鉛テープの残りを巻いた。

電球は消さずに、一段だけ暗くした。熊は二つめの角に残した。丸椅子の上で、ケープはまっすぐ下がっている。裾の鉛が、肩のないところに形を持たせている。

戸を閉めてから、どちらかの肘が机に当たったらしい。内側で鈴が鳴った。引きずる音まで鳴って、止まった。

笹倉は戸に手をかけて、開けなかった。

階段の電気はもう落ちている。三階も二階も空いている。踊り場の風は、昼より冷たくなっていた。

通路のなかには熊だけがいる。ケープは落ちない。