ポンプの音がしている。棚が四段、奥まで。蛍光灯は半分だけ点いている。
蓮見 昨日の分、まだ書いてない。
戸倉 もう出さないと。今週から締めが月曜なんで。
蓮見 書くよ。書くけど、何を書けばいいのか分かんない。開始が七時。終わりが八時四十分。水槽、九本。種類。それだけ?
戸倉 それだけです。
蓮見 九本のうち一本に四十分かかってる。残り八本を一時間で。
戸倉 平均すると、十一分くらいですね。
蓮見 誰も十一分ではやってない。
戸倉 ……はい。
蓮見 四十分のほうは、どこに書くの。
戸倉 欄は、ないです。
蓮見 ないね。
ポンプ。どこかで水面が跳ねる。
戸倉 何があったんですか、その一本。
蓮見 エイ。三日、砂から出てこなかった。
戸倉 餌は。
蓮見 落とした。動かない。拾って、半分替えて、また落とした。それで四十分。
戸倉 食べました?
蓮見 昨日は食べた。今日はまだ見てない。
戸倉 その四十分、僕は残すべきだと思います。
蓮見 どこに。
戸倉 欄を作ります。備考でも、迷ったこと、でも。
蓮見 迷ったこと。
戸倉 はい。
蓮見 それ、誰が読むの。
戸倉 ……上です。
蓮見 シフトを決める人だ。
戸倉 はい。
蓮見 その人に、今週わたし三日ぶん迷いました、って毎週出すわけ。
戸倉 書き方を決めれば、そんなふうには読まれません。
蓮見 書き方を決めた時点で、決めた側のものになる。
戸倉 ……でも、先月の子は。
蓮見 ……。
戸倉 一本落として、あの子のせいになりました。あの子は何も持ってなかった。教わってないって言っても、言った言わないになる。記録があれば、教わってないことが出せます。
蓮見 出す。誰に。
戸倉 ……上に。
蓮見 同じ人だ。
戸倉 同じ人でも、紙があるのとないのは違います。紙がないと、声の大きいほうが通る。ここで声が大きいのは、長くいる人です。
蓮見 私だ。
戸倉 ……そうです。
蓮見 否定しないよ。長くいるってだけで、私の言うことは通る。マニュアルがないから、私がやってることがマニュアルになってる。
戸倉 だから紙にしたいんです。
蓮見 紙にしたら、私のやり方が正しいことになるだけだよ。
戸倉 ……。
蓮見 あの子に必要だったのは紙じゃない。隣に立って、三十分黙って見ててくれる人だよ。それは表に書けない。書けないから、誰もやらない。
戸倉 ……前に読んだ本に、声でしか伝わってこなかったものを誰かが書き取って、はじめて数に入れられるようになる、という話がありました(1)。書き取られないうちは、無いことになる。
蓮見 書き取ったら、比べられる。
戸倉 ……はい。
蓮見 無いことにされるのと、比べられるのと、どっちがましかって話でしょ。
戸倉 はい。
蓮見 どっちもましじゃない。
戸倉 もうひとつ、本の話をしていいですか。
蓮見 本の話、多いね。
戸倉 ……はい。
蓮見 いいよ。
戸倉 小説を読む人が書いた本です。細部にこそ、一見まちがいに見えるところにこそ、可能性がある。だから、たやすくまちがっていると言ってはいけない。言った時点で、読むのをやめたことになる(2)。
蓮見 それで。
戸倉 四十分は、外れ値じゃないと思うんです。あそこにしか何も書いてない。
蓮見 ……。
戸倉 平均のほうには、何も書いてないんです。
蓮見 水は毎日測るでしょ。
戸倉 測ります。
蓮見 何回。
戸倉 朝と、昼と、上がる前。棚のやつは四回。
蓮見 誰も文句言わない。
戸倉 言わないです。
蓮見 温度、pH、亜硝酸、硬度。全部数字だよ。あれは監視じゃないの。
戸倉 ……水は、誰のものでもないからだと思います。
蓮見 そう。水が悪くても、誰も減点されない。人の名前がついた瞬間に、数字は判定になる。
戸倉 じゃあ、部屋の数字にすればいい。誰が何分、じゃなくて。今週この部屋で何本落ちたか。手順書があるかないか。教える時間が取れたか取れなかったか。
蓮見 それ、悪くないよ。
戸倉 はい。
蓮見 でも、部屋の数字を直せるのは、部屋を直せる人だけだよ。私たちじゃない。
戸倉 ……。
蓮見 部屋が悪いって数字が出たら、その数字のほうが消される。人が悪いって数字は消されない。残るのは、消したくないほうだけ。
戸倉 四十分は、怒られないと思います。
蓮見 怒られない。エイだから。
戸倉 ……はい。
蓮見 値段だよ。あれ一匹で、向こうの棚が全部買える。
戸倉 ……。
蓮見 三年前、五十円のやつの水槽で同じことをした。三十分見てた。怒られたよ。それ何分かけてんの、って。
戸倉 同じことなのに。
蓮見 同じことだよ。私はまったく同じことをしてた。表なんか要らない。判定はもう出てる。値札に書いてある。
戸倉 ……それでも、僕は作りたいです。
蓮見 作ればいい。
戸倉 はい。
蓮見 あんた、いつまでいるの。
戸倉 ……あと二年くらい、だと思います。
蓮見 私は八年いる。たぶん、あと何年かいる。
戸倉 はい。
蓮見 あんたが作ったものは残る。あんたは残らない。
戸倉 ……。
蓮見 悪いって言ってない。作れるのはあんただし、読んでる本もあんたのものだ。ただ、あんたは降りられる。私は降りられない。降りられる人が作った物差しで、降りられない人が測られる。
戸倉 ……はい。
蓮見 「はい」じゃなくて、何か言いなよ。
戸倉 ……思いつきません。
蓮見 いいよ。思いついたら、それはたぶん嘘だから。
ポンプ。エアの粒が上がっていく音。
戸倉 それでも、書きます。四十分を。欄がないなら余白に。
蓮見 余白は集計に入らない。
戸倉 入らなくていいです。
蓮見 誰も読まないよ。
戸倉 僕が読みます。
蓮見 ……それ、私が毎晩やってることだよ。
戸倉 知ってます。
蓮見が立つ。棚のほうへ歩く。ガラスの上のほうに、白い線が横に一本ついている。
蓮見 減ってる。
戸倉 どのくらいですか。
蓮見 知らない。
戸倉 え。
蓮見 毎日足してるから、どのくらい減るのか知らない。八年、一度も測ってない。
戸倉 ……測りましょうか。
蓮見 やめとく。
戸倉 なんでですか。
蓮見 分かったら、足す量が決まる。決まったら、見なくなる。
水を汲む音。
蓮見 私が毎晩ここに立ってるのは、足すためじゃないよ。足すついでに、見てるだけ。
戸倉 ……。
蓮見 見るための口実が要るんだよ。それだけ。
戸倉はシートを見ている。昨日の欄の、九本のうちの一本のところに、鉛筆で小さく丸をつける。数字は書かない。
棚の下のほうで、砂が少しだけ動く。
注
(1) 品田悦一「排除と包摂—国学・国文学・芳賀矢一」『国語と国文学』第八九巻第六号、二〇一二年六月。
(2) 石原千秋『テクストはまちがわない—小説と読者の仕事』筑摩書房、二〇〇四年三月、三〜四ページ。