四日続けて、昼が使えない。
朝の十時で路面が白く灼けた。正午には犬も歩かない。それで工場は時間をずらした。夜の十時に始めて、朝の六時に上がる。阿久津はもうその時間の身体になっている。三日で慣れた。四日目には、こちらのほうが正しい順序ではないかという気がしてくる。人は夜に働き、明るいうちは眠る。昼間の労働のほうが、あとから発明された奇習のように思える。
工場は氷を作っている。
角氷の缶が塩水の槽に並んで浸かり、十四時間かけて凍る。引き抜いて、ノコで割って、麻袋に入れて台車に積む。運ぶ先は魚屋と、居酒屋と、この時期は工事現場。庫内は零下だ。ドアを開けると冷気が足元に落ちてくる。外は二十九度、湿度は七割を超える。腕の表面で二つの気候が喧嘩する。氷を担ぐと肩が濡れ、外へ出るとその濡れたところだけが熱い。
夜勤の利点をひとつ挙げるなら、誰も阿久津に話しかけないことだ。昼の職場では、阿久津は阿久津の役をやらなければならなかった。愛想のいい若い男。返事の早い男。夜はその役が要らない。要らないと気づいた晩、肩の位置が三センチ下がった。演じるのをやめると、身体は正直にだるくなる。そのだるさは、おそらく健康な信号だ。
三時に一時間、休憩が入る。
工場を出て、路地をひとつ折れると、宇田さんの店が開いている。開いていると言っても、看板はない。シャッターを腰まで上げて、下から灯りが漏れているだけだ。十一時に開けて、五時に閉める。品書きは一枚もない。出てくるものは毎晩同じで、鶏の骨つきを揚げて、酢と唐辛子と魚の汁で作ったタレをかけて、飯にのせる。それだけだ。
「暑いときは熱いもんを食え」と宇田さんは言う。理屈は通っている。ひと口目で額に汗が出て、三口目で背中が濡れる。食べ終わって外に出ると、風がないのに涼しい。身体が自分で気候を作っている。
揚げ油の弾ける音が、狭い店のなかで反響する。パチ、パチ、と間を置いて鳴る。宇田さんは油から目を離さない。七十を越えているはずだが、腕の筋は乾いた縄のようだ。
棚の上に、業務用のラジカセが置いてある。埃をかぶった銀色の箱で、片方のスピーカーの網が破れている。宇田さんは店を開けるとそれを回し、閉めるまで止めない。入っているのは古い歌謡曲のテープで、阿久津の知らない曲ばかりだ。音は割れている。それが油の音と混ざって、聞き心地はむしろいい。
阿久津がその四十秒に気づいたのは、七日目だった。
曲と曲のあいだに、明らかに別の録音が挟まっている。女の声だ。伴奏はハーモニカかオルガンか、細い持続音がひとつだけ鳴っている。歌詞の頭は聞き取れた。
——冷えてます、冷えてます。
そのあとが聞き取れない。四小節ほどで終わり、少し間があって、次の歌謡曲が始まる。何度聞いても同じところで途切れる。声の後ろに、換気扇の唸りと、油の弾ける音が入っている。この店の音とよく似た音だ。つまりこの四十秒は、どこか屋内の入口あたりで録られている。
「その歌、なんですか」
宇田さんは油から目を離さずに答えた。
「歌じゃない」
その晩はそれで終わった。
十日目に、女がひとり入ってきた。四十くらいで、日焼けした腕に、黒い箱を肩から下げている。箱からは太い毛のようなものが生えていた。マイクにかぶせる風防だと、あとで知った。
桐野と名乗った。音を録る仕事だという。
「機械の音です。もうすぐ消えるやつ」
阿久津はよく分からず、氷ノコの話をした。あれは電動だが、刃が氷に入る瞬間に低い唸りをあげる。氷の温度で音が変わる。よく凍った氷はもっと高い音で鳴る。話しながら、自分が何年もその差を聞き分けてきたのに、それを言葉にしたのが初めてだと気づいた。
「録らせてください」と桐野は言った。「そういうのが一番早く消えます。物より先に音が消えるんです。機械はまだ動いてるのに、部品ひとつ替えると鳴らなくなる」
飯が出てきて、桐野は汗をかきながら黙って食べた。食べ終わったところで、テープが曲の切れ目に来た。
——冷えてます、冷えてます。
桐野の手が止まった。箱の留め具に指をかけたまま、四十秒が終わるまで動かなかった。
「これ、どこで手に入れたんですか」
「うちで録ったんだよ」と宇田さんが言った。
阿久津は箸を置いた。
向かいに氷屋があった、と宇田さんは話しはじめた。今は駐車場になっている、あの三台分の空き地。夏のあいだ、そこの若い男が朝から売り声をあげていた。冷えてます、冷えてます、と歌うように言う。歌詞の続きは、氷の値段と、削り氷のことと、あとは適当だったらしい。日によって変わった。宇田さんは店の入口にラジカセを置いて、それを録った。何度も録り直して、いちばんよく入った日のを残した。
「なんで録ったんですか」
「べつに。声が良かったから」
氷屋は十四年前に畳んだ。男はどこかへ行った。生きているかも知らない。
「客がね、この歌を聞きに来るんだよ」と宇田さんは言った。「うちの飯じゃなくてね。年寄りが座って、あの四十秒だけ待ってる。終わったら帰る。ばかみたいだろう。あれは音楽じゃない。売り声だよ。氷を売るために出してた声だ」
桐野は首を振った。
「売り声じゃなくなったんです」
「同じだろう」
「違います。売るものがなくなったから」
桐野は自分の膝を見て、言葉を選んでいるようだった。
「峠を越えた北のほうの町で、去年、同じ旋律を録りました。祭りの音を録りに行って、隣の家のおばあさんが台所で口ずさんでたんです。歌詞は全然違う。よく落ちます、よく落ちます、って歌ってた。洗剤の売り声です。もう売ってない洗剤の」
阿久津は思わず口のなかでその二つを並べた。冷えてます。よく落ちます。同じ音の運びに、氷と洗剤が乗る。
「どっちが先かは分かりません」と桐野は言った。「たぶん誰も書いてない。売る人が持って歩いて、言葉だけ替えて使った。あの旋律は、どの店のものでもないんです。だから残った。店は全部なくなったのに」
宇田さんは油の温度を見ている。返事はしない。
「うちのは、うちのだよ」としばらくしてから言った。「あの子の声だ」
「それは、そうです」と桐野は言った。
阿久津は考えていた。あの四十秒の裏には、換気扇と油の音が入っている。宣伝の音のなかに、録った側の台所が入りこんでいる。外側に鳴っているのは商売の声で、そのすぐ後ろで、この店の十四年前の夜が鳴っている。宇田さんが残したかったのはどちらだったのか、たぶん宇田さん自身にも分かっていない。
桐野は明日、北のほうの録音を持ってくると言った。並べて聞かせるという。宇田さんは、勝手にしろ、と言った。
帰りぎわ、桐野がテープの残りを聞きたいと言った。B面はまだ回っていない。
宇田さんはラジカセの前に立って、蓋に手を置いた。
「そこは回さない」
理由は言わなかった。桐野も訊かなかった。
四時になって、阿久津は工場に戻った。ノコが氷に入る音を、はじめて音として聞いた。よく凍った角氷は高く鳴る。それを聞き分けられるのは、この町でおそらく数人だ。数人が辞めたら、この音は誰にも聞き取られないまま鳴りつづける。
五時前に、宇田さんの店へ氷をひと袋届けた。頼まれてはいない。ついでだと言った。
蓋を開けた氷箱に袋を置いたとき、棚のラジカセが曲の切れ目に来た。
——冷えてます、冷えてます。
四十秒のあいだ、その売り声は売るものを取り戻していた。目の前の箱で、氷が鳴りながら溶けはじめていた。声が終わると、また何も売っていない音楽に戻った。
外は白みかけていた。今日も焼けるらしい。
(つづく)