朝、自転車で二十分走った。雲が低い。湿度が八割を超えていて、走っているあいだじゅう汗が乾かなかった。水に入ったとき、皮膚がやっと落ち着いた。
あなたの名前を知らない。あの線を敷いたのが誰なのかも、いつなのかも知らない。タイルを並べた人がいて、その人に指示を出した人がいて、そのもっと前に図面を引いた人がいる。全部まとめてあなたと呼ぶことにする。
線は黒い。幅は手のひらより少し狭い。底を、端から端まで一本走っている。壁の手前で横棒が出て、T字になる。あれが来たら折り返す。水が揺れると線も揺れる。まっすぐなものが揺れて見えるのは、水を通しているからだ。線のほうは揺れていない。
泳いでいるあいだ、見ているのはそれだけだ。
天井の梁も、隣のレーンの人も、自分の腕も見ていない。息継ぎで一瞬だけ横が入るが、あれは見ているうちに入らない。顔を戻せば、また線がある。線は目的地ではない。着く場所でもない。進んでいることを教えるだけのものだ。役目はそれだけで、それ以上は何もしない。
三千年前の宮殿の壁に、王が獅子を狩る場面が彫ってある。主題は王だ。王の力を讃えるために彫られている。そこは疑いようがない。
だが、ある二人の批評家がその壁で王を見なかった。彼らが見たのは、画面を斜めに横切る長い線のほうだ。槍の柄。梯子。枠の縁。山の稜線。そういうものが縦横に走っていて、視線が王のところに留まらない。目が線に乗って、端まで行って、また別の線へ移る。二人はそれを解放と呼んだ。一点に集まらないことを、欲望のかたちそのものだと言った。
面白いのは、彼らより二百年ほど前に、まったく逆のことを言った人がいることだ。絵画の到達点は身体の美しさにある、と彼は書いた。物語を語る絵は、そのぶん下位に落ちる。感情の表現ばかりに凝って、美を従属させてしまうからだ(1)。
どちらも物語を疑っている。疑い方が正反対だ。片方は一点に集めることで物語を捨て、もう片方は散らすことで捨てる。集めるか散らすかで争っているように見えて、嫌っているものは同じだろう。ひとつの頂点に向かって上がっていく形を嫌っている。
あなたの線はどちらでもない。
あなたの線は、見られるために引かれていない。見るために引かれている。目を置く場所として敷いてある。だから誰も線そのものを見ない。毎週その上を通って、色も幅も知っているのに、思い出そうとすると輪郭が出てこない。使われる記号はそうなる。読まれるものは残り、使われるものは消える。
T字が来る。壁を蹴る。線がまた始まる。二十五メートルごとに始まって、終わって、始まる。往復には筋がない。行った先で何かが起きるわけでもない。だから泳げる。筋のあるものは、途中でやめると気持ちが悪い。
水は透きとおっている。誰かが毎朝これを濾して、薬を入れて、底のタイルを見に来ている。会ったことがない。会わないまま、その人の仕事の上を通っている。世話をされていることに気づかない側でいるのは楽だ。楽なので、たまに思い出すことにしている。
上がって、身体を拭いて、机に向かうと、書けない。
コーヒーの前に一時間座って、一行も進まない日がある。腹が減っているわけでもない。人にはあれこれ言うくせに、自分の番になると手が止まる。
ただ、壁にぶつかるのは進んでいる身体だけだ。止まっている身体は壁にぶつからない。書けないというのは、書こうとして水を掻いているということで、掻いていなければ壁の位置さえ分からない。
だから、あなたの線が要る。
紙の上にはあれがない。どこを見て進むのか、自分で敷かなければならない。敷いてから泳ぐのではなく、泳ぎながら敷く。うまくいかない日のほうが多い。
この手紙は届かない。あなたが誰かも分からないし、たぶんもうその仕事をしていない。それでも明日、あの上を通る。通るとき、一度だけ、線を線として見ることにする。ほんの一瞬だ。すぐにまた、見なくなる。
注
(1) レンスラー・W・リー『ウト・ピクトゥラ・ポエシス 詩は絵のごとく/絵は詩のごとく—人文主義絵画理論』(一九六七年)、森田義之・篠塚二三男訳、アートワース、二〇二一年一月。