残してから臨む

百二十年前の内閣交代を記した一行から、退くことが続けるための下位手続きになる場合を読む。「逃げ」という一語の速さと、読みの遅さについて。

「余力を残して」臨む。予算の歴史を扱った研究書に、そういう一行があった。(1)

百二十年前、大きな戦争に勝った直後の、内閣が替わる場面についてである。四年半続けた首相が、まだ続けられる位置にいながら、後を別の者に渡している。渡された内閣には、渡した側の推した人物が何人も入っていた。首班に立ったのは別の党の総裁で、その党から入った閣僚は三人だけだ。財政を預かる席には、前の政権で次官だった者がそのまま上がっている。

身体は替わった。手は替わっていない。

なぜ勝った直後に降りるのか。勝ったからだ。戦時に積み上げた借金は返さなければならない。戦時かぎりという約束で取った税は、約束どおりなら軽くしなければならない。戦争のあとに来る仕事のほうが、戦争そのものより長い。長いほうの仕事に、尽きた身体で入ることはできない。

だから残した。残すには、残せるうちに降りる必要がある。尽きてから残そうとしても、残す対象が無い。

この一行が示しているのは、順序だ。

(渡した側は、のちにもう一度その席に戻ってくる。戻れたのは、残してあったからだ。)

降りる手続きを持たない場所の記述を、ひとつ知っている。詩だ。

なんという駅を出発してきたのか もう誰もおぼえていない ただ いつも右側は真昼で 左側は真夜中のふしぎな国を 汽車ははしりつづけている 駅に着くごとに かならず 赤いランプが窓をのぞき よごれた義足やぼろ靴といっしょに まっ黒なかたまりが 投げこまれる そいつはみんな生きており 汽車が走っているときでも みんなずっと生きているのだが それでいて汽車のなかは どこでも屍臭がたちこめている そこにはたしかに俺もいる 誰でも半分はもう亡霊になって もたれあったり からだをすりよせたりしながら まだすこしは 飲んだり食ったりしているが もう尻のあたりがすきとおって 消えかけている奴さえいる

(2)

乗っている。走っている。まだ飲んでもいるし食ってもいる。外から見れば、続いている。それでいて、尻のあたりから透けていく。

この車両は入る一方に出来ている。駅には着く。着くたびに投げこまれるものがあって、出ていくものがない。降車が設計に含まれていない。

走りつづけていることを、続いていると呼んでよいのかどうか。その判定は車内では下せない。車内では全員が同じだけ透けている。比べる相手が外にいない。

位置を替えようとするとき、かならず出てくる一語がある。逃げ、だ。

この一語は速い。二文字で済む。替えたあとに何が起きるかを読む作業のほうは、何ヶ月もかかる。速いほうが先に口から出る。そして先に出た一語が、あとから来る遅い作業の結論を、出る前に塞ぐ。

逃げたかどうかは、退いた者がそのあと何をしたかによってしか決まらない。退いた時点では材料が揃っていない。揃っていない問いに答えを出そうとすると、人は内側を探しに行く。本当はどう思っているのか。ただ浮かれているだけではないのか。

内側には材料が無い。だから出ない。

読むことについて、こういう整理を読んだことがある。ある時期から、作者に言及しないという読み方が現れた。それは方法ではなく立場である、と書かれていた。(3) 方法なら、場面ごとに使い分けられる。立場は使い分けられない。

この立場を、自分の決定に当ててみる。

「本当はどう思っているのか」は、作者に答えを預ける問いだ。作者は答えを持っていない——正確には、作者の答えも、ほかの材料と同じ重さしか持たない。だから問いを替える。この配置では何ができるようになるか。何ができなくなるか。手を動かせる時間はどちらへ動くか。三年後に残っている道筋は、どちらが多いか。

内心は読めない。配置は読める。

同じ書き手に、もっと強い言い方がある。細部にこそ、一見錯誤と見える表現にこそ可能性が秘められている——そう信じるのが前提であって、たやすく「まちがっている」と言ってはならない、それは「読み」の放棄でしかない。(4)

自分の選択に「まちがい」と名づけるのも、同じ速さで出る。そして同じ放棄だ。

ただしその本は、言い切りで終わっていない。読者のすべき仕事を終えたあとでなら、批評の言葉を出してよい、と順序が示してある。批評性は最終地点に表れるべきものだ、と。最終地点というのは、質の話ではなく、順番の話である。

配置を替える話が、いま目の前に一つある。速い一語は、もう何度も出た。何度とも、読む前に出ている。

判定を外へ預けている期間がある。出すものを出して、返事を待っている時間だ。この期間を空白と見なす者が多い。逆だと思う。判定が返ったあとは、返った判定に応じた動きしか取れない。配置を自分の手で組み替えられるのは、返る前のこの期間だけだ。

預けること自体は悪くない。預けたことを忘れ、預け先が答えを出すまで何ひとつ動かさない状態がよくない。そういう時間の渡し方をしている者を何人か見た。待っているのではない。待つという姿勢に、判断の仕事を肩代わりさせている。肩代わりさせた分だけ、替えられたはずの配置が手から離れていく。

人を変えることはできない、与えられるのは機会だけだ、という言い方がある。他人について言われることが多い。自分についても同じだ。意志は、他人のそれと同じくらい動かない。動かないものを動かそうとするのをやめて、置かれる場所のほうを替える。手が届くのはそちらだけだ。

百二十年前の交代は、意志の話ではない。席の配り方の話だ。渡した側は、自分の路線を続けるために、自分の身体を席から外した。外しても続くように、まわりの席を先に組んでおいた。

一人でやる仕事には、替わってくれる身体がない。替えられるのは配置だけになる。

階段を上がりきったとき、足が一段ぶん残っていることがある。あれが余力だ。

上がってみないと残るかどうか分からない、というのは順序が逆で、先に一段ぶんを引いて上がった者にだけ残る。引かずに上がれば、上がりきったところで終わる。終わっても、上がりきってはいる。外からは区別がつかない。

読むのをやめないために、読む時間を減らす。言葉にすれば矛盾する。時間の順に並べれば、手順になる。減らす。残す。長いほうへ入る。

降りることと、やめることは別の手続きだ。片方には次があり、もう片方にはない。分けるのは、降りた日の気分ではない。降りる前に何を残したかだ。

残すのは、今日やる。


注

(1) 伏見岳人『近代日本の予算政治 1900-1914—桂太郎の政治指導と政党内閣の成立過程』東京大学出版会、二〇一三年二月。

(2) 石原吉郎「葬式列車」『サンチョ・パンサの帰郷』思潮社、一九六三年。

(3) 石原千秋『読者はどこにいるのか—書物の中の私たち』河出書房新社、二〇〇九年一〇月、三〇ページ。

(4) 石原千秋『テクストはまちがわない—小説と読者の仕事』筑摩書房、二〇〇四年三月、三〜四ページ。