日焼けした表紙の文庫本が百円だった。七月の昼過ぎ、男は古本屋の奥のワゴンからそれを抜き取った。題名は退色して読めない。頁を繰ると活字は生きていたが、中身を確認しただけで閉じた。レジで百円玉を出したとき、ページの間から薄い紙が滑り落ちた。
拾い上げると、国民年金の納付書だった。
令和四年十月分。四年前の紙だ。左上に名前が印字されている。堀口つね子。その下に住所——隣町の、知らない番地。金額は一万六千五百九十円。紙の下半分をバーコードが占めていた。
納付期限は、四年前に過ぎている。
男は納付書を本に挟み直し、店を出た。舗道が白く灼けていた。正午を回った七月の空気には重量がある。息を吸うと、肺の内壁に湿った膜が貼りつく感触がした。
堀口つね子。
常子か、恒子か、経子か。漢字はわからない。年金の納付書を本に挟む人だ。届いた封筒を開けて、読みかけのページにそのまま差し込んだのだろう。栞の代わりに。そして——払わなかった。
払わなかった理由は無限にありうる。忘れた。金がなかった。読んでいた本が面白すぎて外に出る気にならなかった。引っ越した。入院した。もう、どこにもいなくなった。
男にも覚えがあった。自分の年金を二ヶ月滞納している。封筒を開けるのが億劫だった。コンビニまで歩くのが億劫だった。その一連の手続きの向こう側に、自分と国家のあいだの関係を一ヶ月分だけ延長する仕組みがある。延長しなくても翌朝は来る。ただ、延長しないまま月が積み重なると、届出の不在だけを根拠に、人間の社会的な輪郭は少しずつ薄くなっていく。
角のコンビニに入った。冷房が肌を刺した。汗が一瞬で冷え、腕に鳥肌が立った。
男はポケットから自分の納付書を取り出した。今月分。一万六千九百八十円。
もう一枚、指に触れた。堀口つね子の納付書。本に挟み直したはずだった。無意識のうちにポケットへ移していたらしい。
二枚を並べた。用紙のサイズ、バーコードの太さ、書体——すべて同じだった。違うのは名前と金額だけだ。三百九十円。四年の時間が、この紙の上では三百九十円にしかならない。
男は二枚をレジに出した。
「お願いします」
店員がバーコードを読み取る。ぴ、と鳴った。画面に金額が表示された。男の一万六千九百八十円。
二枚目を手に取った。四年前の十月分。期限切れの、他人の、年金。
ぴ。
鳴った。
画面の金額が変わった。店員は合計額を読み上げた。男は紙幣を出し、釣りを受け取り、レシートを受け取った。二件分の記録が印字されている。上に男の名前。下に堀口つね子。
店員は何も言わなかった。
外に出ると湿気が包んだ。さっきより蒸している。歩いているのか泳いでいるのか判然としない七月の空気のなかを、男は進んだ。
ポケットのレシートに指先が触れた。二つの名前が一枚の紙に並んでいる。
男は堀口つね子の顔を知らない。年齢も、声も、何を読んでいたかも知らない。ただ彼女がかつて一冊の文庫本を読み、そのページに納付書を挟み、払わなかったという事実だけを知っている。
そして男が、代わりに払った。
理由はない。義務も必要もない。バーコードがあったから。コンビニに来たついでだったから。それだけの動機で、一万六千五百九十円が見知らぬ人間の年金記録に加算された。
制度は理由を問わない、と男は思った。名前と金額——それだけが制度にとっての現実だ。バーコードを読み取り、金銭を受領し、記録を更新する。誰が。なぜ。何のために。その問いはレジの向こう側に届かない。届く回路がそもそもない。
堀口つね子が生きているなら——彼女の年金記録のうち、四年前の空白が一ヶ月分だけ埋まったことになる。彼女はそれを知らない。知る契機もない。次に届く通知のどこかの行に、小さな数字がひとつ加わるだけだ。
死んでいるなら——制度は死者を区別しない。バーコードが有効であるかぎり、生者も死者も等しく処理される。誰かの十月が、四年遅れで納付された。
帰り道、公民館の前を通った。硝子戸が開いていて、中から声が漏れていた。
「——届出と届出のあいだに、我々は存在しているにすぎません」
男は立ち止まらなかった。声は背中に当たって、七月の湿気に溶けた。
家に着いた。靴を脱ぎ、冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。テーブルの上に文庫本を置いた。開いてみた。
栞はもうなかった。どのページまで読まれていたのか、わからなくなっていた。
男にわかるのは、百五十ページあたりの綴じ糸がわずかに緩んでいることだけだった。何かが長いあいだ挟まっていた痕跡。紙の厚みぶんだけ、頁がそこで開く。
男はその頁から読みはじめた。