顔は最後まで笑う

夏の路上で紙のうちわを配る役をやった。型を覚えた身体と、雨に濡れて役が落ちた身体。没入と演劇性のあいだで、一日の暗転について考える。

大暑だというのに、二十四度しかない。

湿度は九割ある。厚い雲が低く垂れて、風がない。汗は出るのに乾かない。皮膚の上に薄い膜が張って、そこで止まっている。涼しいはずなのに、身体はまだ涼しさを信用していない。三日前は路面が白く灼けていた。あの熱を覚えている皮膚が、この温度を疑っている。

夏の路上で、紙のうちわを配る役をやったことがある。

型がある。腰のあたりから前に出す。相手の目を一度だけ見る。柄を相手の側に向けて渡す——こちらの手が握っていた側は渡さない。受け取られなかったら、引く。引くのを惜しんではいけない。惜しむと、次の人に届かない。

二百人ぶんもやれば身体が覚える。覚えると楽になる。考えなくてよくなるからだ。断られ方にも種類があって、目を合わせずに歩幅を上げる人、手のひらだけをこちらに向ける人、受け取ってすぐ畳む人、受け取って歩きながら扇ぎはじめる人。四種類目が出ると嬉しい。嬉しいと顔が動く。顔が動くと、次の人が受け取りやすくなる。

型を身につけるのは、苦ではない。むしろ助かる。

ある評論家が、人間は本質的に劇的な生き物だと書いている。劇的に生きるための作法と型を身につけることこそ、文明的な動物として生き延びる条件なのだと。読んだときは大げさだと思った。炎天下で紙を差し出しながら思い出して、大げさではないと思い直した。型は身体の外側につける骨だ。骨があるから、中身の薄い日でも立っていられる。

帰りに降られた。予報になかった雨で、傘を持っている人間は誰もいなかった。十歩で靴の中まで来た。

濡れると、服が身体の形をなぞる。肩の落ち方、腹の出方、膝の位置。布が皮膚の側についてしまうと、こちらの都合で形を作れない。乾いた服は嘘をつけるが、濡れた服はつけない。役が落ちる。落ちた身体は、正直にだるい。そのだるさが来て、はじめて何時間立っていたかがわかる。

十八世紀の絵の話をする。

ある美術史家が、この時代の絵をふたつに分けた。演劇的な絵と、そうでない絵だ。演劇的な絵のなかの人物は、見られていることを知っている。こちらに向かって嘆き、こちらに向かって驚く。そうでない絵のなかの人物は、手元の仕事や、聞いている話や、考えごとに注意を奪われていて、観る者がいることを忘れている。この忘れている状態を、その美術史家は没入と呼んだ(1)。

逆説がある。忘れている人物のほうが、こちらを惹きつける。見られていることを知っている人物は、視線を跳ね返してしまう。忘れている人物だけが、こちらを絵の内側へ入れる。

一日のうち、自分が没入している時間を数えてみる。読んでいるあいだ。書いているあいだ。それだけだ。あとはたいてい、誰かに見られる自分のほうを見ている。

同じ世紀に、別の美学者が、絵画の到達点は身体美だと言い切っている(2)。感情の表出ばかりに凝る絵は下に置かれた。顔ではなく身体を描け、ということだ。乱暴な話だと思っていた。いまは少しわかる。

役は顔でやる。身体は役をしない。長く立っていると、顔は最後まで笑える。先に降りるのは身体のほうだ。膝が言う。肩が言う。声にはならないが、言っていることははっきりしている。

役と役のあいだに、暗転がある。舞台が暗くなって、その暗いあいだに道具が入れ替わる。客席から見えないだけで、そこでは人が動いている。

一日のうち一時間ばかり、その暗いところに落ちる時間がある。落ちているあいだ、自分は自分を劇中の人物として読んでいる。読むと、結末に必然があるように見えてくる。

劇の形式は、対立を無限には続けさせない。個人は個人に対立し、その個人は全体の前に滅びる。ハムレットは死ななければならない——形式上の必然として。舞台の上ではそのとおりだ。まちがっているのは、自分の一日にその形式を当てはめる手つきのほうだ。

ある思想史家が、テクストとの対話には終わりがないと書いていた。終わらせるには人為的に、政治的にやるしかない。テクストの側は終わりを要求していない。閉じたがるのは、いつも読む側の手だ。

自分を読むときも同じことが起きる。筋が見えたと思った瞬間、結末が要る気がしてくる。要らない。あれは読み方の癖であって、身体の側の要求ではない。

ある小説の女は、最後まで自分の住む筋の外へ出られなかった。出られないことが、その人の美しさとして書かれていた。書いた側は筋の外にいる。外にいる人間が、中にいる人間の閉じ込められ方を美しいと書く——その構図に、長いこと引っかかっている。美しさの判定は、たいてい外から降ってくる。

先週、アロハシャツを買った。青を基調にして、切り貼りしたような柄が散っている。仕事には着ていけない。人に会う予定もない。役のために要る服ではなく、役を降りるために要る服だ。そういう服を一枚持っていることが、どうやら効く。

明日も曇るらしい。着るものだけ決めて、寝る。一日ぶんだけ、先に錨を打っておく。それ以上は打てない。打てないことに、いまのところ不満はない。

(1) マイケル・フリード『没入と演劇性—ディドロの時代の絵画と観者』(一九八〇年)、伊藤亜紗訳、水声社、二〇二〇年七月。

(2) レンスラー・W・リー『ウト・ピクトゥラ・ポエシス 詩は絵のごとく/絵は詩のごとく—人文主義絵画理論』(一九六七年)、森田義之・篠塚二三男訳、アートワース、二〇二一年一月。