「無理です」
「まだ二口だろ」
千夏が麦茶を置いた。氷が入っていない。
「氷屋に氷は出さねえ」宇田さんがそう言った。顔は上げない。「見飽きてるだろ」
三口目を噛む。しょうが。醤油。にんにくは薄い。そこまでは動かない。動くのはそのあとだ。舌の奥がいちど狭くなって、それから開く。開いたところに何もない。何かが通ったあとの、幅だけがある。
「酢ですか」
「違う」
「レモン」
「違う」
「梅」
千沙の手が止まった。止まったが、首は振られた。
「近いですか」
「近くない」
宇田さんが鼻で笑う。油が鳴っている。網に上げた衣が、鳴りやむまでのあいだに固まっていく音。
四日通って、四日とも外した。
壁際のリュックを見た。膨らみきって口が閉まらず、上から紐で縛ってある。四日間、同じ場所に同じ角度で置かれている。
「旅行ですか、それ」
「置き場所がないだけ」
「家は」
「ない」
そう言って千夏は換気扇の紐を引いた。
宇田さんが揚げ網を叩いて油を切った。
「四月に来たんだ。表の貼り紙見て。そいつ担いだままドア開けて、明日から来れますかって」
「泊まるとこは」
「訊いてねえ」
千夏はこちらを見ない。麦茶のグラスを拭いている。訊かれたくないことを訊かれたときの背中ではなかった。ただ、答える必要を感じていない背中だった。
夜の工場に戻る。塩水の槽に缶が並んで、十四時間かけて凍る。引き抜いて、割って、麻袋に入れる。庫内は零下だ。
氷を担ぎながら、阿久津は勝手な段取りを組んでいた。夜行バスは何時発か。荷物はどこで買うのがいちばん安いか。着いた先で最初に何を食うか。向こうで千夏が笑っていて、阿久津が知り合いの悪口を言っていて、千夏がそれをいちいち本当のことだと思って聞いている。あの男は駄目だ、話にならん、と言うと、そうなんだ、と返ってくる。返ってくることになっている。
肩の氷が溶けはじめる。
四日ぶんの皿から、人間を一人こしらえていた。こしらえたやつは、こしらえた通りに笑う。当たり前だ。
零下の部屋で声を出して笑った。息が白い。ドアを開ければ外は二十九度ある。
味のほうも考えた。
酸が入っているなら、酸として立つはずだ。立たない。立たないのに、通ったあとがある。ということは、酸そのものはもう抜けている。抜けたあとに残るものだけを食っている。焦げでもない。焦げは前に来る。あれは後ろにしかいない。
当てたい、と思う。同時に、当てたくない、とも思う。当てたら終わる。終わったら、明日から俺はただ唐揚げを食う男になる。
五日目、千夏がカウンターに小さいスピーカーを置いた。
低音が先に来る音楽だった。声が途中でふっと引っ込んで、少し遅れて壁のほうから戻ってくる。戻ってきたときには言葉ではなくなっている。輪郭だけが返ってくる。返ってきたものが、また薄くなって次の小節に混ざる。
「何ですかこれ」
「教えない」
「また当てるんですか」
「これは当てなくていい」千夏はスピーカーの角度を少し変えた。「当てても意味がない。聞いてればいいやつ」
宇田さんは何も言わない。鶏を油に入れる。音が二秒おきに強くなって、また引く。音楽と油が別々の周期で鳴っている。
「明後日出る」千夏が言った。「夜のバス」
「どこに」
「決めてない」
「決めてないのに」
「決めてないから出るんだって」
皿が来た。五つ。衣が薄くて、角が立っている。
一口目は熱すぎて味がしない。二口目で道が通る。
「宇田さん」
「あん」
「これ、何が入ってるんですか」
宇田さんが手を止めた。止めて、はじめてこちらを見た。
「タレは足してる」
「足す」
「毎朝沸かして、漉して、減った分だけ足す。減らねえ日はねえから、毎日足す」
「いつからですか」
「俺が継いだのが三十四年前だ。その前がどれだけやってたかは知らん」
「じゃあ、あの酸っぱいみたいなのは」
「知らん」
「知らないんですか」
「入れた覚えがねえんだよ」宇田さんは油を見ている。「前の親父が入れたのか、そのまた前か。何十年薄めても、あそこだけ残る。抜けねえ」
作った男が読めない。毎朝沸かして、漉して、足して、三十四年ぶん自分の手を通してきたものの中に、自分のものではない一本が残っていて、それがどこから来たのかわからない。わからないまま毎日客に出している。
「当てられないじゃないですか」
「当てられねえよ」宇田さんが言った。「俺も当てられねえ」
千夏が笑った。四日目までに聞いたことのない笑い方だった。
「答えがないから、ずっと訊けるでしょ」
千夏は明後日の夜に出た。
リュックは、担いだら思ったより小さく見えた。壁際にあったときのほうが大きかった。人が背負うと荷物は縮む。
出る前に、換気扇の紐をいつも通りに引いていった。それだけだった。
翌週も通っている。
宇田さんは朝、タレを沸かして、漉して、足す。四ヶ月のあいだ、その漉す作業は千夏がやっていた。四ヶ月ぶん、あの人の手を通ったものが鍋の中にいる。当分は残る。何十年経っても抜けないものがある鍋なら、四ヶ月ぶんくらいは軽く残る。
俺はそれを名指せない。
名指せないものを、しょうがと醤油と一緒に噛んでいる。
「今日、なんか違う気がします」
「毎日違う」
「そうですか」
「そうだ」
皿が置かれる。五つ。衣が薄くて、角が立っている。
一口目は熱すぎて味がしない。
二口目で、道が通る。
その手前に、まだ名前のないものがある。