第3話

継ぎ足してます

当ててみろと言われた味を、氷屋の男は五日かけて外し続ける。店の主人も答えを持っていなかった。連載「揚げてます」第三話。

「無理です」

「まだ二口だろ」

千夏が麦茶を置いた。氷が入っていない。

「氷屋に氷は出さねえ」宇田さんがそう言った。顔は上げない。「見飽きてるだろ」

三口目を噛む。しょうが。醤油。にんにくは薄い。そこまでは動かない。動くのはそのあとだ。舌の奥がいちど狭くなって、それから開く。開いたところに何もない。何かが通ったあとの、幅だけがある。

「酢ですか」

「違う」

「レモン」

「違う」

「梅」

千沙の手が止まった。止まったが、首は振られた。

「近いですか」

「近くない」

宇田さんが鼻で笑う。油が鳴っている。網に上げた衣が、鳴りやむまでのあいだに固まっていく音。

四日通って、四日とも外した。

壁際のリュックを見た。膨らみきって口が閉まらず、上から紐で縛ってある。四日間、同じ場所に同じ角度で置かれている。

「旅行ですか、それ」

「置き場所がないだけ」

「家は」

「ない」

そう言って千夏は換気扇の紐を引いた。

宇田さんが揚げ網を叩いて油を切った。

「四月に来たんだ。表の貼り紙見て。そいつ担いだままドア開けて、明日から来れますかって」

「泊まるとこは」

「訊いてねえ」

千夏はこちらを見ない。麦茶のグラスを拭いている。訊かれたくないことを訊かれたときの背中ではなかった。ただ、答える必要を感じていない背中だった。

夜の工場に戻る。塩水の槽に缶が並んで、十四時間かけて凍る。引き抜いて、割って、麻袋に入れる。庫内は零下だ。

氷を担ぎながら、阿久津は勝手な段取りを組んでいた。夜行バスは何時発か。荷物はどこで買うのがいちばん安いか。着いた先で最初に何を食うか。向こうで千夏が笑っていて、阿久津が知り合いの悪口を言っていて、千夏がそれをいちいち本当のことだと思って聞いている。あの男は駄目だ、話にならん、と言うと、そうなんだ、と返ってくる。返ってくることになっている。

肩の氷が溶けはじめる。

四日ぶんの皿から、人間を一人こしらえていた。こしらえたやつは、こしらえた通りに笑う。当たり前だ。

零下の部屋で声を出して笑った。息が白い。ドアを開ければ外は二十九度ある。

味のほうも考えた。

酸が入っているなら、酸として立つはずだ。立たない。立たないのに、通ったあとがある。ということは、酸そのものはもう抜けている。抜けたあとに残るものだけを食っている。焦げでもない。焦げは前に来る。あれは後ろにしかいない。

当てたい、と思う。同時に、当てたくない、とも思う。当てたら終わる。終わったら、明日から俺はただ唐揚げを食う男になる。

五日目、千夏がカウンターに小さいスピーカーを置いた。

低音が先に来る音楽だった。声が途中でふっと引っ込んで、少し遅れて壁のほうから戻ってくる。戻ってきたときには言葉ではなくなっている。輪郭だけが返ってくる。返ってきたものが、また薄くなって次の小節に混ざる。

「何ですかこれ」

「教えない」

「また当てるんですか」

「これは当てなくていい」千夏はスピーカーの角度を少し変えた。「当てても意味がない。聞いてればいいやつ」

宇田さんは何も言わない。鶏を油に入れる。音が二秒おきに強くなって、また引く。音楽と油が別々の周期で鳴っている。

「明後日出る」千夏が言った。「夜のバス」

「どこに」

「決めてない」

「決めてないのに」

「決めてないから出るんだって」

皿が来た。五つ。衣が薄くて、角が立っている。

一口目は熱すぎて味がしない。二口目で道が通る。

「宇田さん」

「あん」

「これ、何が入ってるんですか」

宇田さんが手を止めた。止めて、はじめてこちらを見た。

「タレは足してる」

「足す」

「毎朝沸かして、漉して、減った分だけ足す。減らねえ日はねえから、毎日足す」

「いつからですか」

「俺が継いだのが三十四年前だ。その前がどれだけやってたかは知らん」

「じゃあ、あの酸っぱいみたいなのは」

「知らん」

「知らないんですか」

「入れた覚えがねえんだよ」宇田さんは油を見ている。「前の親父が入れたのか、そのまた前か。何十年薄めても、あそこだけ残る。抜けねえ」

作った男が読めない。毎朝沸かして、漉して、足して、三十四年ぶん自分の手を通してきたものの中に、自分のものではない一本が残っていて、それがどこから来たのかわからない。わからないまま毎日客に出している。

「当てられないじゃないですか」

「当てられねえよ」宇田さんが言った。「俺も当てられねえ」

千夏が笑った。四日目までに聞いたことのない笑い方だった。

「答えがないから、ずっと訊けるでしょ」

千夏は明後日の夜に出た。

リュックは、担いだら思ったより小さく見えた。壁際にあったときのほうが大きかった。人が背負うと荷物は縮む。

出る前に、換気扇の紐をいつも通りに引いていった。それだけだった。

翌週も通っている。

宇田さんは朝、タレを沸かして、漉して、足す。四ヶ月のあいだ、その漉す作業は千夏がやっていた。四ヶ月ぶん、あの人の手を通ったものが鍋の中にいる。当分は残る。何十年経っても抜けないものがある鍋なら、四ヶ月ぶんくらいは軽く残る。

俺はそれを名指せない。

名指せないものを、しょうがと醤油と一緒に噛んでいる。

「今日、なんか違う気がします」

「毎日違う」

「そうですか」

「そうだ」

皿が置かれる。五つ。衣が薄くて、角が立っている。

一口目は熱すぎて味がしない。

二口目で、道が通る。

その手前に、まだ名前のないものがある。