十二分

体育館の受付で、七時が七時である理由を聞く。速い一語を出す側と、その一語を時刻に差し替えつづける側の会話。

受付の台に、ボールペンが紐で吊ってある。瀬能は名簿に名前を書いて、その右の欄でペンを止めた。

「そこ、まだです」

板の裏から日下部が出てきた。腕に丸めた紐を提げている。

「七時を回ってから書く欄なので」

「六時五十六分ですけど」

「回ってからです」

瀬能はペンを置いた。紐が台の縁に当たって、小さく鳴った。廊下は床の薬剤の匂いがする。上の階でボールが一度跳ねて、止んだ。

「カード、お持ちですか」

「作ってきました」

日下部は受け取って、裏の日付を見た。

「今日作ったやつですね」

「今日作りました」

「初めてですか」

「こういうところは十年ぶりです。思い立ったんですよ。……頭だけでやる仕事って、もうだいたい向こうに持っていかれるじゃないですか。残るのは身体のほうだと思って。身体性ですよ」

日下部はカードを台に戻した。

「何曜日に来ますか」

「え」

「何曜日です」

「決めてないですけど、週二でいこうと思って。靴も買ったし、半年ぶんまとめて払ったし、何人かに言っちゃったんで、もう引き返せないというか」

「引き返せますよ」

「引き返せないようにしたつもりなんですけど」

「それ、潰したんじゃなくて、重くしただけです。自分で潰した逃げ道は、自分で開けられます。鍵を自分で持ってるので」

瀬能は笑った。日下部は笑わなかった。

「知り合いがね、ピアノを再開したんです。AIより上手い曲を作るとかじゃなくて、弾く回路を切らさないためだって言ってて。それ、わかるなと思ったんですよ」

「その人、何時に弾きますか」

「……聞いてないです」

「聞いておくといいと思います」

館内放送が入って、何かの終了を告げて、切れた。日下部は壁の時計を見た。

「ここは七時です」

「七時」

「六時四十五分までが団体さんで、ネットと支柱を片付けるのに十二分かかります。床を拭くのが要る日はもう少し。それで七時です」

「じゃあ五十七分でもいいじゃないですか」

「十二分です」

「あ、はい」

「用具室の鍵を持ってる人が、九時四十分までの勤務なんですよ。そこから逆に引いて、九時半で終わりです」

「七時も九時半も、誰かのシフトでできてるってことですか」

「そうです」

「意外と、人の都合なんですね」

「全部そうです」

日下部は名簿の下から札を一枚出して、台の端に置いた。受付終了、と書いてある。

「これ、八時四十分で下ろします。それ以降は入れません」

「厳しいですね」

「八時四十分に入った人が、急がずに終われる時刻だからです」

「なるほど」

「あと、八時四十分まで開いてると、『あとで行く』が八時四十分まで生きるんですよ。生きたまま家にいられる。下ろすと、その日はそこで終わります」

「終わりますか」

「終わります。それで、次の日の七時に来る人がいます」

瀬能は札の字を見た。角が丸くなって、ラミネートの端が白く浮いている。

「よく決まってますね、ここ」

「去年まで、毎月手で書いてたんです。団体の予約を先に埋めて、空いたところに個人開放を入れるので、七時のときもあれば八時のときもあった」

「動いてたんですか」

「動いてました。動いてると、誰も覚えないんですよ」

「それで」

「ひな形を作りました。予約を入れると、残ったところに個人開放が勝手に立つようにして。毎月、誰も決めなくても七時が出てきます」

「作ったんですか、自分で」

「印刷が通るようになるまで二ヶ月かかりました。端末の触り方から覚え直したので」

「そこまでやります?」

「毎月決める人がいると、毎月やめられるので」

上でまたボールが跳ねた。今度は続けて三回鳴って、誰かが笑った。

「俺、最終的には組むやつをやりたいんですよ。首を取り合うというか」

「首相撲」

「知ってます?」

「見たことはあります」

「あれ、一人じゃできないんですよね。壁を相手にやっても何も返ってこない。向こうが引くから、こっちの首が立つ」

「返ってこないですね」

「だから身体性なんですよ。頭だけの知性と違って、向こうがいる」

日下部は名簿を正面に戻した。

「相手がいるものは、二人の予定が重なったところにしか建たないです」

「……そうですね」

「だから、だいたい建ちません。片方が水曜で、片方が木曜なので」

「ここは建ってるじゃないですか」

「七時に開けてるからです」

瀬能はしばらく黙っていた。それから訊いた。

「身体性っていうの、どう思います」

「わからないです」

「わからない?」

「俺は、来る人の来る時刻しか見てないので」

時計の長針が十二に乗った。日下部は腰の束から鍵を一本抜いて、扉の前に立った。

「シューズ、底が白いやつですか」

「白です」

「じゃあ入れます」

鍵が回って、扉が内側へ引かれた。中の照明はまだ半分しか点いていない。奥のほうは暗いままで、床だけが手前から白く伸びている。

「七時です。書いてください」

瀬能は台に戻って、時刻の欄にペンを下ろした。

「十九時でいいですか」

「どっちでも」