一
橋の上でしか出てこない考えがある。足は勝手に動いていて、頭だけがどこか別のところにいる。渡りきる頃には形になっている。
二
机に戻ってそれを書き取ると、速度が抜けている。橋の上で三つに分かれていたものが、紙の上では二つ半になる。残りの半分の行方は分からない。
三
止まると、思考も座る。座った思考は別の生き物だ。おとなしいし、行儀もいい。ただ、あまり遠くへは行かない。
四
ある美術史の議論に「没入」という語がある。自分のしていること、感じていることに引きつけられ、見られていることを忘れた状態を指す(1)。
五
橋の上のあれは、たぶんそれだった。誰も見ていない。見ていないから、考えが伸びきる。
六
行きの鞄には、要ると思ったものが入っている。帰りの鞄には、要らなかったものが入っている。旅とは、その差を測る装置だ。
七
だから重さは行きでは決まらない。行きの荷は自分で選んだ。帰りの荷は、向こうが勝手に渡してきたものだ。
八
湿度が九割あると、荷が重くなる。物の量は変わらない。乾かないというだけで、麻でも紙でも人でも、みんな少しずつ増える。
九
亀に乗って行って帰ってきた男の話は、行きの部分がいつも短い。長いのは、帰り着いてからだ。
十
書き手が変われば、あの男の帰り方も変わる。意気揚々と帰る男もいれば、答えを持ち帰る男もいる。何も持たずに、波に漂って戻ってくるだけの男もいる。
十一
最後の男が残る。志もなく、意志もなく、手ぶらで帰る。持ち物がないという持ち物を、あれは一つだけ抱えている。
十二
渡された箱は、道中では開けない。開けるのは帰り着いてからだ。開けた瞬間に、移動していたぶんの時間がまとめて追いついてくる。
十三
疲労も同じ順序で届く。働いた日ではなく、その二日後に来る。身体は勘定を後回しにできる。後回しにできるというのは、必ず払わされるということだ。
十四
夜になると頭が熱くなり、甘いものが欲しくなる。欲しいものと要るものが食い違っている。身体は自分の要求を正確に訳せない。
十五
訳せないのは身体の落ち度ではない。受け取る側の語彙が足りない。俺は自分の身体の言葉を、三語くらいしか知らない。
十六
誰もが名前を知っている小説の女主人公の、その名が本文には一度も書かれていない、という指摘を読んだ。
十七
知っているのは名前であって、書かれていたものではない。土産の箱を、開けないまま棚に置いてある。
十八
寄席の見世物だった装置が、海を渡って輸入されると、学校の教具になった(2)。同じ仕組みが、置かれた場所で別のものになる。
十九
持って帰ったものは、持って帰った先で別のものになる。旅とは、意味の運搬に失敗しつづけることだ。
二十
図書館で昔の戦友に会った。立ったまま互いの進み具合を言い合う。数分で終わる。数分で終わるから、何年でも続く。
二十一
前に一人で歩いた道を、今度は後輩と歩いた。同じ角を曲がる。景色は変わっていない。荷が変わっただけだ。
二十二
帰りは雨に降られた。濡れて歩く。濡れると足が軽くなる。守るものがなくなるからだ。
二十三
持って帰るものを減らすほど、遠くまで行ける。減らしすぎた者は、帰ってくる理由をなくす。
二十四
だから箱を持たされる。開けるなと言われて。帰るまでは開けない。帰ったら開ける。開けたら終わる。それでも持って帰る。
注
(1) マイケル・フリード『没入と演劇性—ディドロの時代の絵画と観者』(一九八〇年)、伊藤亜紗訳、水声社、二〇二〇年七月。
(2) 大久保遼『映像のアルケオロジー—視覚理論・光学メディア・映像文化』青弓社、二〇一五年二月。