まだ汚れていない

値のついた城のなかで人が涼んでいる。真っ白なスニーカーを履いた若者が、読めない搭乗券を握っている。摩耗を読む目と、摩耗させる手のあいだにあるものについて。

伝聞から始める。

南の国に古い王城がある。外の機関が、それを人類全体にとって価値あるものとして登録している。その城のなかに、人が普通に住んでいる。夏は暑いから、上を脱いで涼んでいる者もいる。——そう聞いた。俺は行っていない。行くこともない。俺が受け取るものは、いつも誰かの口を一度通っている。

普通なら、ここで保存か生活かという問いを立てる。壁を守るのか、そこで暮らす人を守るのか。二つに割って、どちらかに味方する。

だがこの話の要点は、割れていないところにある。登録を拒んでいない。ありがたがってもいない。認めてやってもいいが、こっちはこっちで使う——伝えられた口ぶりはそういうものだった。外から与えられた値づけを、拒否も内面化もせず、使用のほうに従属させている。

弱い態度ではない。値づけという手つきの急所を、正確に突いている。

登録とは何をすることか。一言でいえば、時間を止めることだ。古い建物は、古いから値がつく。古いとは、使われた時間が表面に残っているということだ。摩耗が値になる。ところが値がついた瞬間に、これ以上摩耗させてはならないという命令が発生する。摩耗を評価する目が、摩耗を禁じる。

だから保存された建物は、値がついた日から新品に向かって進んでいく。使われないという意味で。

同じ城のそばに女性たちの博物館があって、説明書きが三つの言語で並んでいるという。現地の言葉と、英語と、かつてこの国を支配した側の言葉。三つ目は誰のために残っているのか。読者はもう帰ったはずだ。帰ったあとも、読むための設備だけが立っている。

今日から秋だという。外は湿っていて、雲が低い。八割がた、まだ夏だ。暦のほうが先に決める。決めた側は、決められた側の実感を待たない。値づけとは、いつもその手つきをしている。

遺産という語について、ひとつ思い出しておく。

「私達は、貧困になってしまった。私達は人類の遺産を一つずつ手放し、しばしば百分の一の価値で質に入れ、その代りに「当座的(アクチュアル)なもの」という小銭を受け取らねばならなかった」(1)

これは百年前の診断で、遺産を手放す側の話だ。登録は逆の操作に見える。質に入れさせない。凍らせる。だが質屋と保存は同じ台の上に立っている。どちらも遺産を資産として扱っている。査定して換えるか、査定して止めるかの違いしかない。

第三の扱いが、住むことだ。住む者は査定しない。使う。使用は取引ではないから、値が立たない。

使う者は読まない。読む者は使わない。この一行を、しばらく持っておく。

同じ晩に、別の話も聞いた。

出国の手続きをする場所で、若い男が数人いた。身なりはいい。靴が白い。真っ白だ。彼らは搭乗券の見方がわかっていなかった。英語で強い言葉を投げられても、それが強い言葉だと気づかない。行き先は内陸の国だった。

この話を聞いた人間は、全員その先を読む。読めてしまう。相場という語まで出てくる。人ひとりにいくら、という相場が、ちゃんとある。ここでも値はつく。壁につく値と、同じ台に乗っている。

十年ほど前の曲に、汚れたスニーカーを洗う歌がある。

汚れてたForce One そのまんまじゃ飛べない 足元がみっともねぇ 汚れてる 落としてくこの手で 染み一つ残さねぇ

ここで白さは到達だ。汚れは通過した時間で、それを自分の手で落とす。落とせる者だけが飛べる。汚れを知っている者にしか、この白さは作れない。

空港の白さは違う。あれは何も通過していない白さだ。使われていないという意味で新品であり、新品であることがそのまま読まれてしまう。まだ何にも属していない。まだ誰にも使われていない。だから使える、と。

同じ白が、片方では到達で、片方では手つかずだ。表面は区別しない。区別するのは読む側だけだ。

三つ目を置く。

勝ち負けを第三者の目が決める競技がある。ある選手は何年ものあいだ、際どい試合をすべて勝ちにしてもらっていた。負けさせられない事情が周りにあったのだと思う。記録はきれいなまま保たれた。先日、その保存が終わった。倒れて、それきりだった。

守るとは、摩耗を先送りにすることだ。先送りされた摩耗には利息がつく。きれいな記録とは、使われなかった時間の別名でしかない。値のついた壁と、白いままの靴と、傷のない戦績は、同じ場所にいる。

ここまで書いて、自分の位置を確認しておく。俺は三つとも読んでいる。城も、靴も、記録も、外から読んで値をつけている。読む側の目つきを批判しながら、この文章そのものが読む側の目つきでできている。

もうひとつ思い出す一節がある。

「本当の祖国愛は瞬間的なものではなく、生涯を通じて長くその意思に関わるものだが、多くの者にとって祖国愛は、さしあたって違和感の代理を務めているだけであり、一皮めくれば、その違和感が息づいているのである」(2)

祖国愛が違和感の代理を務めるという指摘は、遠い国への親愛にもそのまま裏返せる。ある国が何度も大陸の帝国を追い返した歴史に胸が熱くなるとき、測られているのは向こうの温度ではない。こちらの、ここが居心地悪いという感覚が、行き場を見つけただけだ。平和を掲げる側が抵抗の歴史に親近感を寄せるとき、その親近感は、たいてい相手を読んでいない。自分の違和感を、遠くの壁に立てかけている。

彼らがどうなったのかを俺は知らない。知らないまま、靴の白さから先を組み立てた。読みは当たっているかもしれない。当たっていたら、なお悪い。読みが当たるということは、その人の先が、他人に読めるほど型にはまっているということだ。

城に戻る。

壁には値がついている。値札は外国語で書かれている。誰が読むためのものかは、はっきりしている。その壁にもたれて、誰かが涼んでいる。値札を読まずに。

読まない者だけが、そこを使える。使えば減る。減った分だけ、そこは誰かのものになる。


(1) ヴァルター・ベンヤミン「経験と貧困」『ベンヤミン・コレクション(2)』浅井健二郎編訳、三宅晶子・久保哲司・内村博信・西村龍一訳、ちくま学芸文庫、一九九六年、三八三頁。

(2) ジークフリート・クラカウアー「戦争体験に関して(Vom Erleben des Kriegs)」(一九一五年)。