濡れた桑

五齢の四日目、蚕は一日に六十キロ食う。二人しかいない飼育室で、十二の系統のうち一つを止めるかどうかが決まらないまま、雨が降りはじめる。

五齢の四日目は、一日に六十キロ食う。

芝は棚の前で桑を切っている。刃が茎に入るたび、切り口から白いものが滲んで、指に付く。乾くと剥がれない。三年やって、落とし方はまだ知らない。

棚は八段、十二列。上から一号、下りて十二号。番号のほかに名前はない。

音がしている。雨に似ている。見学の子どもは必ず天井を見上げる。

「降ってきたか」

戸口に鴇田が立っていた。二十一時を過ぎている。

「蚕です」

「知ってる。知ってて訊いた」

鴇田は長靴のまま入ってくる。手袋はしていない。三月で契約が切れて、四月から来なくていいことになっている。四月から毎日来ている。

「七号、静かだな」

「眠です」

「触ったか」

「触りました。二時間前に」

鴇田は七号の前で腰をかがめる。顔を近づける。目はもうよく見えていない。近づけても見えないのは本人が一番分かっていて、それでも近づける。

「動いてないぞ」

「眠ってるときは動きません」

「死んでても動かない」

「首の色が違います」

「そうだ。違う」

そう言って、鴇田はしゃがみこむ。床に落ちた蚕を拾いはじめる。一頭ずつ、指の腹で掬って、棚へ戻す。落ちた蚕は自分では戻れない。脚が枝を掴む形にできていない。羽根はあるが飛べない。口は残っているが、成虫になれば何も食べない。何千年もかけて、人の手がないと生きられない身体に作り替えられている。落ちたら、拾う手が来るまでそこにいる。

「今日は何頭でした」

「十四」

「昨日は」

「数えてない。四十くらいか」

数えていない、と言う日は、たいてい多い日だ。

「報告書、読んだ」

芝は手を止めない。

「七号を止めるって書いたな」

「卵で凍らせて、系統としては休止です」

「休止ってのは、止めるってことだ」

「はい」

「凍らせたやつは、起きないことがある」

「知ってます」

「知っててやるのか」

「はい」

刃が入る。白いものが滲む。

「桑が足りません。畑を三分の一に減らされて、人が二人です。十二本のうち三本が、この二週間ずっと薄いです。薄いまま繭にすると、来年の卵が減ります。減った分は、また誰かが薄く育てます」

「そういう年もある」

「四年続いてます」

鴇田は答えない。床の蚕をもう一頭拾う。

「七号の糸は使い物になりません。四十年、誰も使ってない」

「使い道は後から来る」

「四十年来てません」

「四十年は短いよ」

「短くないです」

「短い」

芝はそこで手を止めた。止めたのは、言い返す言葉がなかったからではない。この人が短いと言うときの短さと、自分が短くないと言うときの短さは、同じ単位ではない。同じ単位ではないものを並べても、どちらかが折れるまで終わらない。

「三週間前」と芝は言った。

鴇田の手が止まる。

「九号、半分落ちました」

「……ああ」

「朝の桑が濡れてました」

「拭いたはずだ」

「拭いてないです」

「拭いた」

「拭いてないです。私が来たとき、布が乾いてました」

沈黙。ポンプはない。この部屋にあるのは食う音だけで、いまはそれも七号のぶんだけ抜けている。

「書いたか」

「書いてないです」

「書けよ」

「書いたら、あなたはもう来られません」

「来られないほうがいいだろう」

「そうです」

「じゃあ書け」

「書きません」

鴇田は笑った。笑ってから、少し咳をした。

「お前、桑の濡れ具合、どうやって見てる」

「掌に乗せて、」

「乗せて、」

「返して、裏を見ます。裏の毛が寝てたら駄目です」

「教えてないよな、それ」

「教わってないです」

「誰から」

「誰からでもないです。二年、夜の給桑は私だけでした」

鴇田は床から立ち上がる。膝に手をついて、二回に分けて立つ。

「継げばいいんだよ、お前が」

「継ぎません」

「なんで」

「三月で切れます。私の契約は年度で終わります。卵が起きるのは五月です。私は毎年、いないことになってる時期に掃立てをやってます」

「知ってる」

「知ってて言うんですね」

「言うよ。言わないと、誰も直さない」

「言っても直りません」

「そうだな」

鴇田は棚の一号を見上げた。八段の一番上は、脚立に乗らないと届かない。この人はもう脚立には乗らない。乗らないと決めたのではなく、去年の秋に一度落ちて、それきり誰も乗せない。

「俺が来るから、お前が帰れない」

芝は答えなかった。

「分かってて来てる」

「はい」

「悪いと思ってる」

「思ってても来ますよね」

「来る」

「じゃあ、思ってないのと同じです」

「同じだ」

鴇田は否定しなかった。否定しなかったことのほうが、芝には応えた。この人は、自分が誰かの時間を食って生きていることを、正確に勘定に入れている。入れたうえで、それでも来る。勘定に入れずに来る人より、たちが悪い。

「一号から六号は、糸を採る系統です。七号から十二号は、誰も採らない。採らないものを六本抱えて、採るものを薄くしてる」

「それは順番が逆だ」

「逆じゃないです」

「逆だよ。採られてる六本は、いつでも作り直せる。掛け合わせりゃ出る。採られてない六本は、消えたら出てこない。あれは作れないんだ。育てるしかない」

「育てる手が二本しかないです」

「だから拾ってる」

鴇田は床を指した。指の先に、まだ一頭いた。

外で音がした。

二人とも止まった。天井のほうを見た。見学の子どもがやるのと同じ動きだった。

「蚕か」

「雨です」

「そうか」

「そうです」

鴇田は戸口まで歩いて、外を見た。

「畑の分は」

「明日切ります」

「濡れてるな」

「濡れてます」

一枚ずつ拭くしかない。六十キロぶんを、布で。夜が明ける前に始めて、昼までに終わらない。終わらなくても、蚕は待たない。待てない身体にされている。

「布、どこだったかな」

「洗って干してあります」

「じゃあ濡れてるな」

「濡れてます」

鴇田は少し笑って、また床にしゃがんだ。拾う手つきは、目が見えていた頃と変わっていない。変わっていないから、いま何頭見落としているのかは、本人には分からない。

芝は次の枝を取って、刃を入れた。白いものが滲んで、指に付いた。

七号のあたりで、かすかに音がした。

眠が明けたのだ。明日から、また食う。