雨。十九度。九月にしては冷える。窓が開いている。閉めた者はいない。
甲 筋なんか、どうでもいい。
乙 じゃあ何を読むんです。
甲 文字を。一行の中の、色を。
乙 色。
甲 開いたところを開いたまま読む。前がどうで後ろがどうで、という繋がりを追わない。追った途端に、こちらが引きずられる。
乙 引きずられると、何が困るんですか。
甲 困る。腹が立ったり、気の毒だと思ったりする。思った分だけ、見えなくなる。
乙 見えなくなるのは、何がですか。
甲 ……その一行の、佇まいが。
乙 佇まい、ね。
甲 笑ったな。
乙 笑ってないです。
甲 笑った。
乙 笑いました。
乙 じゃあ訊きますけど、あなたが今日ここへ来るまでの道は、筋ですか。
甲 道は道だ。
乙 峠を越えて、雨に降られて、茶屋で休んだ。順番があったでしょう。
甲 あった。
乙 その順番を抜いて、雨だけを取り出せますか。
甲 取り出せる。現に今、雨のことだけ考えている。
乙 考えていません。あなたは「峠で降られた雨」のことを考えてる。峠が入ってるでしょう。
甲 ……。
乙 順番を抜いたつもりの雨に、順番がくっついてる。
甲 屁理屈だ。
乙 屁理屈です。でも間違ってはいないでしょう。
甲 昔、西洋の男が分けた。絵は空間、詩は時間。並んでいる記号は並んでいるものしか写せず、続いていく記号は続いていくものしか写せない。
乙 律儀な人ですね。
甲 律儀だ。おかげでこちらは百年、その分け方の上で考えている。
乙 その分け方は、誰のために作られたんですか。
甲 ……作った人のために。
乙 あなたのためではない。
甲 ない。
乙 なのに使ってる。
甲 使っている。分けられた棚に自分を置いて、置いた棚の中で身動きが取れなくなっている。
乙 棚から出ればいい。
甲 出方が分からん。出ようとする思考そのものが、棚の板でできている。
乙 それは、うまいことを言いましたね。
甲 褒めているのか。
乙 褒めてないです。うまいことを言った人は、たいてい何もしない。
雨が強くなる。窓を閉める者はまだいない。
乙 訳して。
甲 何を。
乙 その本。英語でしょう。声に出して。
甲 ……なぜ。
乙 聞きたいから。
甲 筋は飛ばすぞ。
乙 飛ばしてくれていいです。飛ばしたところは、こっちで訊きます。
甲 (読む)——夜の海の上に舟が出ている。女がいる。男がいる。男は、女がこのまま望まぬ縁へ嫁がされるのを見ていられない、と誓う。
乙 その「望まぬ縁」というのは。
甲 親が決めたものだ。
乙 女は、なんと。
甲 ……ここには書いていない。
乙 書いてないんですか。
甲 書いてある。まだ読んでいないだけだ。
乙 じゃあ読んでください。
甲 (読む)——女は、
乙 もう結構です。
甲 まだ途中だ。
乙 途中でいいです。そこから先は、聞かなくても分かるので。
甲 分かるのか。
乙 分かります。私が書いたわけじゃないのに、分かる。おかしいでしょう。
甲 ……おかしい。
乙 あなたは、書いてあるものを読んでる。私は、書いてないものを読んでる。どっちが早いと思います。
甲 問いが多いな、さっきから。
乙 多いです。
甲 こちらが読んで、そちらが訊く。この配置は誰が決めた。
乙 私です。
甲 ……。
乙 最初にこの部屋へ入ってきたのはあなたですけど、座る場所を決めたのは私です。
甲 覚えていない。
甲 いや、覚えている。座れと言われた。
乙 言いました。
甲 なぜあの位置だった。
乙 窓を背にすると、顔が見えなくなるからです。
甲 誰の。
乙 あなたの。
しばらく、雨の音だけ。
甲 一つ訊いていいか。
乙 どうぞ。
甲 なぜ、訊く側に回った。
乙 ……。
甲 そちらが読み上げて、こちらが訊いてもよかった。文字は読めるんだろう。
乙 読めます。
甲 なら、なぜ。
乙 読み上げる側は、自分の速さで進めるからです。訊く側は、止められる。
甲 止めたかったのか。
乙 止めたかったんじゃなくて、止められる側に回りたくなかった。
甲 ……。
乙 あなたは今日、ここへ来て、私を見て、絵になる、と思ったでしょう。
甲 思った。
乙 正直ですね。
甲 嘘をつくと、余計に見苦しい。
乙 絵にされる側は、動けないんです。動くと構図が崩れるので。
甲 崩していい。
乙 崩していいと言う人は、崩れた後で困った顔をします。
甲 ……こちらの負けだ。
乙 勝ち負けじゃないです。
甲 負けだ。こちらは分け方の話をしていた。そちらは、誰がどの側に立たされるかの話をしていた。話す高さが違った。
乙 高さ。
甲 こちらのほうが高いところで話していたわけじゃない。逆だ。そちらのほうが、床に近いところで話していた。床に近いほうが強い。
乙 そういう言い方も、うまいですね。
甲 まだ褒めないのか。
乙 褒めません。
乙 さっきの続き、自分で読んだらどうです。
甲 読まない。
乙 なぜ。
甲 そちらが打ち切ったところが、いちばん含んでいる。読み進めたら、含んでいた分が減る。
乙 ……ほう。
乙 それは、少し、いいことを言いました。
甲 褒めたな。
乙 褒めてないです。
乙 一つだけ、教えてもいいですか。
甲 教わる立場か、こちらは。
乙 立場の話はもういいでしょう。
甲 ……どうぞ。
乙 絵は一つの瞬間しか描けない、と、その西洋の男も言ってたんでしょう。
甲 言っていた。だから、前と後ろを見る者の側に喚び起こすような、いちばん孕んだ一瞬を選べ、と。
乙 その「前と後ろ」って、筋のことじゃないんですか。
甲 ……。
乙 絵の中には描けない。でも見る人の頭の中では、勝手に動く。動かないと、その一瞬が一瞬にならない。
甲 ……。
乙 だから、あなたが要らないと言ってたものを、あなたの先生も、しれっと入れてたんですよ。分けておいて、片方の側から、こっそり手を伸ばしてる。
甲 ……分けた男が、分けきれなかった。
乙 分けきれないものを分けた、と言ったほうが正確でしょう。
雨。窓は開いたまま。
甲 あの分け方には、行き先があった。あれは海を渡って、この国の展覧会の分類にまでなった。書と画を切り離し、詩と絵を切り離して、棚を作った。棚を作られた側は、そこに並ぶしかない。
乙 並ばなかったものは。
甲 消えた。というより、名前を失って、別の棚の隅に紛れた。
乙 棚を作った人は、並べられる側のことを、どのくらい考えたんでしょうね。
甲 考えていない、と言いたいのか。
乙 考えていたかもしれません。考えていても、並べられる側にはならない。そこが違う。
甲 ……そちらは、いつもそこを突く。
乙 そこしか突けないので。
甲 こちらの持ってきた難題は、たぶん、手前で躓いていた。
乙 どこで。
甲 絵にしたい、と言いながら、絵にする相手を、絵として見るところから始めた。最初に相手を止めた。止めてから、生きているものを描こうとしていた。
乙 順番が逆ですね。
甲 逆だ。
乙 じゃあ、直せばいいでしょう。
甲 直し方が分からん。
乙 私に訊かないでください。
甲 訊いていない。
乙 訊いてます。
甲 ……もう一度だけ読む。
乙 どうぞ。
甲 (読む)——女は、
乙 ああ、そこは。
甲 打ち切るな。
乙 打ち切りません。続けてください。
甲 (読む)——女は、何も言わなかった。
しばらく、雨の音。
乙 それでいいです。
甲 いま、何を読んだ。
乙 「何も言わなかった」を。
甲 書いてある通りだ。
乙 書いてある通りですけど、その前に男が誓ってるでしょう。誓われたあとで黙るのと、誰にも何も言われないまま黙るのとは、別のことです。
甲 ……同じ「黙る」なのに。
乙 字面は同じです。同じなのは字面だけです。
甲 ……こちらはずっと、一行の中を見ていた。
乙 はい。
甲 一行の前に何があったかを見ていなかった。
乙 はい。
甲 見ていなかったから、その一行が何を含んでいるかも、分かっていなかった。
乙 そうです。
甲 ……含んでいる、というのは、前と後ろがあってはじめて言えることだ。
乙 やっと着きましたね。
甲 褒めるのか。
乙 褒めません。着くのが遅い。
窓を閉めるかどうかで、少し揉める。
乙 寒いなら閉めますけど。
甲 寒くはない。
乙 じゃあ開けておきます。
甲 雨が入る。
乙 入っても畳です。乾きます。
甲 乾くまでの間はどうする。
乙 濡れてます。
甲 それだけか。
乙 それだけです。濡れてる間のことを気にする人は、だいたい自分では拭かない人です。
甲 ……拭こう。
乙 布は、洗って干してあります。
甲 じゃあ濡れているな。
乙 濡れてます。
甲 最後に一つ。
乙 まだあるんですか。
甲 そちらは、なぜこちらに読ませた。
乙 ……。
甲 自分で読めるものを、わざわざ他人の声にした。
乙 自分の声で読むと、自分の話になるからです。
甲 ……。
乙 他人の口から出てくると、他人の話として聞ける。聞けるところまで来て、はじめて止められる。自分で読んでたら、たぶん、止まれない。
甲 止まらないと、どうなる。
乙 最後まで読んでしまいます。
甲 最後には何がある。
乙 知ってます。だから読まないんです。
雨。窓は開いたまま。畳の縁が、手のひらほど色を変えている。
甲は本を閉じない。開いたまま、伏せて置く。
乙 それ、癖がつきますよ。
甲 つけばいい。
乙 なぜ。
甲 どこで止めたか、後から分かる。
乙 ……。
甲 書き足すわけじゃない。ただ、開いてあった場所が残る。
乙 残して、どうするんです。
甲 明日、そこから読む。明日の自分は他人だから、こちらが惜しんでも平気で先へ行く。
乙 先へ行かれたら困るんじゃないんですか。
甲 困る。困るが、そこはもう、こちらの持ち場じゃない。
乙が立つ。襖のところで止まる。
乙 一つ、言い忘れました。
甲 なんだ。
乙 私は、あなたに教えたつもりはないです。
甲 ……。
乙 訊いただけです。訊かれて答えたのはあなたで、答えを持ってたのもあなたです。
甲 持っていたなら、なぜ出てこなかった。
乙 訊かれてなかったからでしょう。
甲 ……それは、教えたと言うんじゃないのか。
乙 言いません。
甲 なぜ。
乙 教えたことにすると、あなたが私の弟子になるでしょう。面倒です。
襖が閉まる。
甲は、開いたまま伏せた本の上に、掌を置いている。
雨は、まだ強い。
窓は、開いたままである。
注
(1) レンスラー・W・リー『ウト・ピクトゥラ・ポエシス 詩は絵のごとく/絵は詩のごとく—人文主義絵画理論』(一九六七年)、森田義之・篠塚二三男訳、アートワース、二〇二一年一月。
(2) 北澤憲昭「工業・ナショナリズム・美術—「美術」概念形成史素描」『境界の美術史—「美術」形成史ノート』ブリュッケ、二〇〇〇年六月。